『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/10/01
子供

  第二十五回  一番人気のターザン

 太平洋戦争が終わって、真っ先にやってきた娯楽と言えば、映画だったかも知れない。“母もの”と呼ぶ三益愛子主演の映画や、ちゃんばら映画に続いて上映されるようになったのが輸入映画だった。もちろん大人向けの文芸映画も多く入ってきたが、子供の人気は、何と言ってもターザン映画だった。密林の中で繰り広げるターザンの仕草を子供が真似ない訳はない。早速、それらが流行(はや)り始めた。
 中でも人気だったのが、大木から下がった(つる)を揺さぶって、先の大木の枝に渡る大技だった。ターザンの由来などほとんどが知らない現在でも、公園などに「ターザン・ロープ」なる仕掛けはあるが、こちらはロープを格子状に編んだ子供用のフィールド・アスレチックだから、私達が熱中したロープ遊びとは少し違う。
 この遊びのできる場所は、まず大木があって、ロープを()るための大きな枝が張り出していることが条件だった。ターザンのように枝から枝へ渡ることは、どだい子供には無理だから、枝に吊ったロープにぶら下がって揺らし、ターザンと同じ叫び声が上げられれば十分だった。もう六十年以上も前のことだから、ターザンの叫び声を正確には覚えていないが、多分、「アハ、ホー」とか「アハ、ハー」と長延ばしに叫んだような気がする。違っているかもしれない。
 この遊びに格好の場所があった。寺の境内にある高さ十メートルほどの小高い丘で、天辺には、秋になると臭い実をたくさん落とす銀杏(いちょう)などの大木が数本あった。この丘、四方になだれているから、ロープから手を離して落下する折のスリルがあった。早速、木登り名人が、張り出した枝にロープを吊る作業までは順調にはかどった。
 どうにか枝に吊ったロープを揺すっては、「アハ、ハー」と叫んで、傾斜地に落下する遊びに皆熱中していった。しかし、失敗はじきにやってきた。日ごろ私達が縄と称して何にでも使う代物は、(わら)()ってこしらえる藁縄である。後に、藁を一本ずつ差し込んで、藁縄を綯う足踏み式の縄綯い器も出現するが、当時は、両(てのひら)(つば)を吐きつけての縄綯いだから、()りが十分にかかっていず、強度が不足していた。
 ただ、縄にぶら下がるだけならよかったが、揺することで、枝と縄がこすれてじきに擦り切れ、かのターザンは、途中で落下する羽目になる。思案した仲間が、引っ越しの折に使った麻縄を家から持ってきて、藁縄と組み合わせると、どうにか遊びは続けられた。
 私達を熱中させたターザンにも、少し触れなくてはなるまい。この物語は、アメリカの作家で、長ったらしい名の、エドガー・ライス・バローズが書いた冒険小説『ターザン・シリーズ』なのである。全二十六巻のうち、第一作の『類猿人ターザン』が書かれたのが一九一四年というから、日本では大正三年のことで、もう百年も前になる。
 筋書きも古い人なら大方は知っている。イギリスの貴族でもあるグレイストーク(きょう)は、夫妻で任地のアフリカに行く途中、船が難破して、アフリカの西海岸に漂着する。そこで生まれたのがターザンで、両親の死後、雌の大猿カーラに育てられ、ジャングルの王者となる。
 やがて、文明国の探検隊に会い、自らの素姓を知り、いったんはイギリス貴族に戻り、結婚もする。しかし、この文明の虚飾を嫌って、再びジャングル生活に戻る――というのが粗筋で、単なる原人ではなかったところも、ターザンの魅力の一つだった。
 ターザン映画は無声映画時代から上映されてきたが、主役のターザン役もたびたび替わった。戦後我々の前に現れたターザン役は、六代目に当たる、かのジョニー・ワイズミュラー(一九〇七―八四)だった。
 ワイズミュラーと言えば、もともと水泳の選手。百メートルの自由形で初めて一分の壁を破ったり、パリやアムステルダムのオリンピックで獲得した金メダルは合計五個だった。そんな筋骨隆々たるワイズミュラーがターザンとして、我々少年の前に現れたのだから驚かないはずはない。
 ターザン役の映画は、歴代で一番多い十二本だが、一体、あの時代の、どんな作品を見ていたのだろうか。念のため『映画大全集』(メタモル出版)なる資料を繰ってみると、終戦後の作品としては、「魔境のターザン」「ターザンと豹女」「ターザンの怒り」「絶海のターザン」などで、その後は、次のターザン役、レックス・バーカーに代が替わっている。




(c)yoshihiro enomoto



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