『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2012/10/21
子供

  第二十七回
 高峰三枝子を歌う子供演芸会

 昭和二十年八月十五日の終戦の日を境に、町の様相は少しずつ変わり始めた。まず、軍隊に召集されていた兵達が還って来る。国内の隊にいた兵は、終戦の日の翌日から、軍服に戦闘帽を被ったみすぼらしい格好で戻って来た。知り合いのまんじゅう屋の息子も、その裏の自転車屋の息子もその中にいた。更に今の東南アジアの南方方面に行っていた兵も、中国、満州からの兵も軍属も帰り始め、町は急に活気づいてきた。当時のソ連に抑留されて、シベリアで強制労働をさせられていた兵隊は、その後何年かをかけて、少しずつ古里に還ってきた。
 集落ごとに青年団が生まれ、戦時中に途絶えていた消防団が編成され、野球のチームも誕生した。この青年達の帰還で一番喜んだのは子供達で、中でもそれは青年団が地区ごとに催す演芸会だったかも知れない。
 当時の娯楽といえば、町に唯一あった映画館で観る映画と、ラジオ放送だけで、そのラジオも民間放送はなく、NHKの第一、第二放送だけだった。そこで放送される人気番組を思い出すままに書くと、夕方から放送の子供向けドラマ「鐘の鳴る丘」(菊田一夫作)や、クイズ番組「とんち教室」「二十の扉」などのほか、これだけは正確に覚えている、日曜の夜八時からの歌謡番組「今週の明星」だった。
 子供が心待ちにしていた「鐘の鳴る丘」の主題歌は当時「歌のおばさん」と呼ばれた松田敏子が歌ったものである。これを書くに当たって資料を調べると、菊田一夫、古関裕而の人気コンビの作詞、作曲の歌で、昭和二十二年の誕生となっている。この時代に少年、少女期を送った人なら誰でも口ずさめるから、この歌の一番だけを書きだしてみる。
  緑の丘の 赤い屋根
  とんがり帽子の 時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊も 啼いてます
  風がそよそよ 丘のうえ
  黄色いお窓は (おい)らの家よ
 この物語は、信州の高原を舞台に、戦災孤児の保護に尽くす加賀美(かがみ)修平と孤児達の物語で、夕飯の(ぜん)に涙をぬぐいながら座って、母からよく笑われた。
 さて、この稿の本題である青年団の演芸会だが、この晩は、子供はもちろん地区の住民のほとんどが集まった。どこにも大工や電器のいじれる人物がいたから手製の舞台はじきに出来上がり、裸電球が下げられ、マイクが立てられた。伴奏の楽器はアコーディオンかギターで、それもない時はハーモニカだけのこともある。ただし、アコーディオンはどこにでもあるわけではないから、町唯一の演奏家、Eさんが招かれた。
 終戦直後は歌謡曲の新曲もないから、戦前の曲が多く歌われた。それらの曲を今でも私が覚えているのは、そのお陰である。
 東海林太郎の歌「赤城の子守唄」、ディック・ミネの「上海ブルース」「人生の並木道」、霧島昇とミス・コロムビアのデュエットで、映画『愛染(あいぜん)かつら』の主題歌「旅の夜風」など挙げたらきりがない。「人生の並木道」の歌詞は「泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けばおさない 二人して 故郷を捨てた 甲斐がない」と単純そのものだが、この舞台には、丈の短いツンツルテンの着物を着た男女が現れ、歌に合わせて腕を組んで、歌い手の周りを回るから、拍手喝采(かっさい)が起きる。
 この歌を歌ったディック・ミネは、戦時中、三根耕一と呼ばれ、ミス・コロムビアは松原操の名に替えさせられていた。これは、敵性語排斥の国の方針で、私達が日常使っていたバスは乗り合い自動車に、トラックは貨物自動車に言い替えた。今日でも使う野球の投手や一塁手、右翼手などの表現も当時の名残りである。日本のプロ野球創成期の名投手、スタンヒルは、ロシア革命で追われ北海道に移住したが、彼も戦時中は須田博を名のっていた。今も旭川市にスタルヒン球場の名が残っている。
 青年団のこんな演芸会を子供が真似ないわけがない。放課後、申し合わせて、農家の庭先に集まって、子供演芸会を開く。舞台といえば、農家ならどこでも物を干す時に使う、畳一枚ほどの大きさの縁台を選んだ。これに棒を立て、缶詰の空き缶をかぶせれば立派なマイクになった。これができない時は、(くわ)や草掻きの柄を、少々斜めになるが使った。
 演奏用の楽器には、ギターを真似て座敷ぼうきを使い、アコーディオンに見立てて盆提灯(ぢょうちん)を持ってくる者もいた。女性歌手が歌う時に組んだ両掌から垂らすハンカチの替わりに、手拭(てぬぐ)いも用意した。後は開幕を待つばかりである。
 私が得意がって歌う曲もたくさんあったが、中でも拍手を多くもらえた歌は、高峰三枝子のヒット曲、「湖畔の宿」で、なぜか子供心にも哀愁のある歌だと思っていた。今になって調べてみると、昭和十五年に生まれた曲だから、当時にしても懐かしのメロディーだったはずである。
 「山の寂しい 湖に ひとり来たのも 悲しい心」で始まる「湖畔の宿」を歌う時は、高峰三枝子よろしく、ハンケチ替わりの手拭いを垂らし、組んだ両掌を左右に揺らしながら情をこめて歌った。時々、遠くから眺めていた農家のおじさんやおばさんからも拍手をもらえた。この曲には、二番と三番の間に、「ああ、あの山の姿も湖水の水も、静かに静かに黄昏(たそがれ)てゆく……」に始まる台詞(せりふ)があるが、これも(そらん)じていた。
 なぜか好きだったのが三番の歌詞だった。思い出すままに書いてみると、「ランプ引きよせ ふるさとへ 書いてまた消す 湖畔の便り 旅のこころの つれづれに ひとり占う トランプの 青い女王(クイーン)の さびしさよ」というくだりだ。当時「ランプ」は「洋燈」と書かれていたかも知れない。こんな情感が小学生の私に分かっていたのか、とも思うが、この三番は特に情をこめて歌った。
 そんなころだったかと思うが、ある日、家庭訪問にやって来た担任の女性教師が、母にこう言ったというのである。「榎本くんは、とてもお父さんのいないお宅の子には見えませんね」と。私の父は、昭和十八年五月二十九日のアッツ島玉砕で戦死していたのである。
 これほど歌好きの私も、学校の音楽教科、それも歌唱の成績は常に悪く、(あこが)れの合唱団の一員に、中学三年まで一度も選ばれたことがなかった。






(c)yoshihiro enomoto



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