2012/11/12 |
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第二十九回 「死語」になった竹馬 |
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先日、横浜球場の辺りを散歩していたら、中年の男性の一団が竹馬を作っていた。周囲を取り囲む親子連れが、出来たばかりの竹馬に順に乗せてもらっていた。中の年配と覚しき人の指し図で、竹馬がどんどん出来上がっていく。私達が子供のころ作ったように、竹に足を乗せる二枚の板を、 ついでに書くが、少し上達して、もう一段高くしたい時は、板の踵の部分を上げると、板を結んでいた縄の部分が もう一つ、私の近所の、子供のいるらしきお宅の玄関口に、幼児の使う竹馬のおもちゃらしきものが立てかけてある。こちらは、着色したプラスチックと覚しき代物で、一つ感心するのが、踵の乗る部分の下に、もう一本脚が付いているから、小さい子の乗れる二本脚の竹馬といえる。 これらから、とうの昔に消え去っていたと思っていた竹馬が、こうして続いていることに、思わずほくそ笑むことになる。 私の俳句仲間の一人に、黒田杏子さんなる女性がいる。この人の作品に、こんな竹馬の一句がある。 屋根から乗りて竹馬の女の子 この黒田さん、私と同年配で、しかも栃木県の在に疎開していた経験もあるから、竹馬世代の一人とも言える。しかも彼女の現在の この一句を、ある俳句総合雑誌の ことの善し悪しをあげつらうつもりはないが、この発言者が、昭和二十八年生まれとなれば、その当時から竹馬が子供の間で姿を消していた、ということになる。 先の「女の子」の一句ではないが、かつて竹馬が上達し始めると、脚の位置を高くしたくなり、果ては屋根の 竹馬の青きにほひを子等知れる 中村草田男 塀に 竹馬の雪 などの句を並べて見ると、幼友達の顔まで浮かんでくるが、「 この「竹馬の友」も、中国から渡来した言葉だった。晋の時代の正史でもある 『 こんな故事から、竹馬は中国から渡来したとも言われているが、中にはこんな説もある。平安時代から伝わる日本芸能の一つに その竹馬がなぜ冬の季語なのか判然としないが、私の経験では、冬の季節と記憶が重なる。乗ったことのある人なら覚えがあるだろうが、竹馬乗りは、脚の親指と人差し指で、支えの竹をしっかり挟むと安定する。ただ、素足でこれをやると、指間が赤くなり、やがて擦りむけてくる。ただ、竹馬に乗るのは冬だったから、皆足袋を履いているので、指間の痛みはない。ただし当時は、既製品の足袋のない時代だから、これらの足袋は手縫いの自家製となる。私達の少年の動きは激しい上に竹馬に乗るから、その需要たるや並みの量ではない。後の母の述懐によれば、一冬に七、八足を履きつぶしたという。 ここまで書いてきた他に、竹馬はもう一種ある。自生の竹や笹竹を、枝や葉を付けたまま切り、これを馬に見立ててまたがる。竹の根元近くに手綱代わりの綱を付け、 |
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(c)yoshihiro enomoto |
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