『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/04/26
子供

  第三十一回
 蛍は火垂る、星垂る

 戦時中に疎開した群馬は、純農村地帯で、どこを見渡しても田や桑畑ばかりだった。遊具もない時代だったから、赤城山の裾に広がる田畑は、格好の遊び場だった。中でも田に引く用水の流れ川は、子供にとって天国だった。
 蛍狩りもその一つである。蛍の捕れる夜は、風がなくムーッと暑い日と決まっていた。大人になった今も、こんな蒸し暑い夜を迎えると、不思議なことに、「蛍が出そう」と思う。
 蛍狩りに用意する物は竹箒(たかぼうき)が一本あれば十分である。それも使い込んで先が短くなっている物ではなく、下ろし立ての枝のたっぷりしたものがいい。なければ笹の枝を束ねたものでも十分だった。蛍篭などといったしゃれたものはないから、これまた用途の多い、手拭(てぬぐ)いを二つ折りにして縫った袋を、腰に下げて出掛けた。
 出掛ける折に母が必ず言う一言は、「蛍を触った手で、目をこすらないのよ」だったが、今でもその理由は分からない。
 何人か連れだって行くから、誰が唄うともなく、くだんの「ホー、ホー、蛍来い。あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」の合唱が始まる。子供のはしゃぎ心に火がつく。
 川縁の道は、狭くて起伏があるから、夜道は危ない。必ず一人二人は川に落ちてびしょ濡れになる。目当ての蛍は、空中を低く高く飛ぶから、子供の竹箒では届かないことが多い。川端の茂み近くにいるやつは比較的(ねら)いやすい。箒に蛍がからんだら、すかさず足許の地面に下ろして捕る。手拭い製の袋に何匹かたまると、姿は見えないのに、蛍火が布を通して明滅する。
 こんな時、何級か先輩の仲間の一人が、文部省唱歌の「蛍」を、決まって唄い始める。私の覚えている第一節を書いてみると、こんな歌詞である。
  蛍のやどは川ばた(やなぎ)
  楊おぼろに夕やみ寄せて、
  川の目高が夢見る頃は、
   ほ、ほ、ほたるが灯をともす。
 子供心に、この歌に詩を感じていたのだろうと思う。
 歳時記の仕事をするようになって、私も覚えたのだが、この蛍の語源は、「火垂る」や「火照る」「星垂る」などであることを知った。そう言えば、蛍の飛ぶころ咲く「蛍袋」に、「星垂る」の文字を充ててみると、この花に蛍を入れて遊んだ時代のことが思われる。
  宵月を蛍袋の花で指す     中村草田男
と詠まれた場面は、まさに虚の世界に誘ってくれそうである。
 虚のことを書いたついでに、こんな故事も思い出す。古くは、蛍を人の霊魂をみる思いもあり、それに適う和歌も残っている。
 平安中期の中古三十六歌仙の一人に数えられる和泉(いずみ)式部(しきぶ)の歌がそうである。その式部の許に通って来る男の足が遠のいた。思案した式部は、山城国(やましろのくに)というから、今の京都府の南部にある貴布禰(きぶね)(貴船)神社に詣でて
  物思へば沢のほたるも我身よりあくがれ出る玉(魂)かとぞみる
と詠んだ。すると、御社(みやしろ)の内から、忍び声で神の返歌があった――という話が『古今(ここん)著聞集(ちょもんじゅう)』などに出てくる。
 こうした、蛍を人の魂だとか、死霊の化身とする伝承は全国に多いが、これは蛍の現れる時期が、ちょうど盂蘭盆会(うらぼんえ)のころと重なるからだとされる。
 子供にとって少々寂しいことだったが、この蛍が私達の目の前から消えた。昭和二十年代の半ばだったろうか、全国の農家が殺虫剤、DDTを使い始めたのである。このお陰で、秋の実りの田を覆う害虫、(いなご)などは見事に姿を消したが、子供の漁の対象だった泥鰌(どじょう)田螺(たにし)(ふな)(なまず)も田や川から居なくなった。当然のことながら、川蜷(かわにな)を餌とする蛍も、この世から消えた。



(c)yoshihiro enomoto



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