『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/05/20
子供

  第三十三回
 信玄袋にお手玉入れて

 かつて、男の子がポケット一杯に、面子やビー玉を入れていたように、女の子も、お手玉やお弾きを信玄袋に入れて、持ち歩いていた。ちょっと平らな板や卓、畳の間があれば、それらを出して遊んだものである。ことに、歌を唄いながら進むお手玉は、脇で見ている男の私にも(うらや)ましく思えた。
 洋裁を業としていた私の母なども、昔が懐かしかったのだろう、洋服や着物の端切れでお手玉を作り、(めい)や近所の女の子に上げていた。それらが出来上がると、片手で、あるいは両手で突いていた。時には両手で四つも五つも一緒に突いている姿には感心させられていた。母の童心に帰った一時だったのだろう。
 そのお手玉もいろんな形に作った。まんまるのものや四角のもの、中には俵形のものも出来上がり、それらには別の糸で、飾りまで付けていた。
 中身は小豆や大豆などがいいのだが、なにせ当時は食糧難のご時世だから(ぜい)が過ぎる。籾殻(もみがら)に小石を混ぜたりの工夫をしていた。この中に、今もって分からないのは、足袋の(こはぜ)を一つ入れていたことである。音をよくするためなのか、それとも何かの(まじな)いだったのだろうか。
 女の子達のお手玉を見ていると、二通りの遊び方があった。「突き」と「取り」の二つである。「突き」の方は、母が突いて見せてくれたあれである。片手の(てのひら)にお手玉を乗せ、二つなら交互に高く突けばいいのだが、三つ以上になると、相当の訓練が必要になる。両手の突きは、右利きなら、右手のお手玉を突き上げている間に、左手のお手玉を右手に移すのだが、こちらも玉数が多くなると、やはり大変な芸当になる。
 これら熟練したものは、サーカスなどでピエロがやる、沢山のボールや剣を突き上げて回す、あの芸当である。
 もう一方の「取り」の方は、別にやや大き目の親玉を用意する必要がある。さらに床に決められた数の手玉を置き、親玉を放り上げた間に手玉を一つ取り、落ちてくる親玉を受け、手中の手玉を下に落とす――という手順である。全部取り終わると、次は二個取りと順次増やしていく。
 このお手玉の遊びには、何種類かの歌が唄われたが、半世紀以上も経っていることと、遊びの当事者でなかったから思い出せない。参考までに文献を調べていると、『江戸の子供遊び事典』(八坂書房)の本の中に、「おさらい」なる歌の歌詞が載っていた。それは、
  おさらい
  おひとつ おひとつ おひとつ
  おひとつでおさらい
  おふたつでおさらい
  おひとつおのこり おさらい
という文句で、先のお手玉の「取り」の折に唄う歌のようだが、文字を追いながら曲を思い出せないから、当時(はや)した歌ではなかったかも知れない。
 私が子供時代を送った群馬では、このお手玉のことを「ナンゴ」と言った。どんな字を書くのかは知らない。恐らく方言なのだろう。ことほど左様に、お手玉の地方での呼び名は五十にも及ぶという。ということは、このお手玉遊びが、いかに大勢の少女をとりこにしていたかの(あかし)でもあろう。
 ちなみに、その中からいくつかを拾ってみると、オジャミ(美濃)、イッツイコ(尾張)、オコンメ(京都)、イシドリ(長崎)、オサラ(三重、和歌山)、ナナイシ(岡山)、アヤオリ(長野)、イシキ(山口)、イシナゴ(イシナンゴとも、関西、中国地方)――と相成る。
 不思議なのは、関西等で呼ぶ「イシナンゴ」は群馬での呼び名「ナンゴ」に「イシ」が付いただけの共通点である。この「イシ」がお手玉の発生源にもかかわってくる。
 古くからお手玉遊びはあったが、当初は布製のもののかわりに小石が使われた。そのせいか石子と書いて「イシナゴ」とも呼ばれた。その「イシ」が、関西などに「イシナンゴ」として残っているのだろう。もう一つの呼び名も石取と書いて「イシナドリ」と読ませる。
 石の次にやってくるのが、木の実や貝殻を使ったお手玉である。その一つが無患子(むくろじ)と呼ぶ木の実だった。古い方ならご存知だろうが、羽根突きの羽根の基に使われる黒い実である。歳時記では秋の季語となっている。
 もう一方の貝殻の方は、細螺と書いて「キサゴ」(または「キシャゴ」)と読む巻き貝を使った。そろばん玉の形をして、美しい模様で、しかも殻が厚くて堅いとあらば、まさにお手玉に向いていた。「キシャゴ」と言えばお手玉のことだが、私のいた群馬で「キシャゴ」はお弾きのことを指す。このことは別稿の「お弾き」の中で触れる。





(c)yoshihiro enomoto



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