『子供の遊び歳時記』

                 榎本好宏


2013/08/30
子供

  第四十三回
 ブランコはポルトガル語

 昭和十九年のことだが、私が入学した小学校(当時は国民学校と呼んだ)の校庭には、遊具らしきものは何もなかった。あるのは鉄棒と肋木(ろくぼく)だけで、この肋木にも説明の要があろう。字義通り、人体の(あばら)骨のように横木が何本もわたしてあり、これにつかまって懸垂をしたり、足を掛け、吊る下がり、体を鍛える用具だった。
 一方の鉄棒も、運動用具としてより、銃剣術の具だった。柱に(わら)が巻き付けられ、銃剣に見たてた木銃を、教練(学校で行った軍事的訓練)で、「マエ、マエ、ウシロ」の軍人の掛け声で、突いたり引いたりしていた。
 この年の暮れのころから、東京への空襲も激しくなってきたため、我が家は群馬の片田舎に疎開したが、ここもやはり校庭には、鉄棒と、薪を背負い本を読む二宮金次郎の銅像しかなく、折からの赤城(おろし)で砂が舞っていた。校舎も敵機から見えにくいよう迷彩(めいさい)がほどこされ、爆風でガラスが飛び散らないよう、窓という窓には短冊に切った紙が縦、横、斜めに張られてあった。
 田舎とはいえ、この町には中島飛行機(のちの富士重工)の軍需工場があちこちにあったから空襲への備えでもあった。事実、空襲もあった。
 この地にも終戦がやってきて、まず校庭にできた遊具は、ブランコと遊動円木だった。校舎一面に塗られた迷彩はがしが後回しになったことは、何とも戦争のあとの快感だったかも知れない。
 校庭にできたブランコには列ができ、昼休みや休憩時間だけでなく、放課後まで賑わった。女の子は戦中のいでたちのモンペ姿だったから、とても「スカートを翻して……」とは言えないが、その叫声の中から、子供心にも、戦争が終わったことを実感していた。
 少々こむずかしい名の遊動円木の方は、丸太の前後を支え木から吊って揺らす遊具。大勢が一緒に乗り、前後、左右に揺らせたし、動く丸太の上を歩くバランスの訓練にもなった。
 やがて、どこにでも吊られ、遊び方もいろいろ生まれた。その一つが遠くへ跳ぶことだった。慣れてきて大揺れも平気になったとは言え、この状態で跳びだすと、大方は尻から落ちる羽目になるし、跳びだすタイミングが大事だった。
 もう一つの定番は、ブランコを揺らしながら靴を遠くへ跳ばす靴跳ばしもあったが、終戦直後は運動靴が手に入らず、みな下駄で過ごしたから、靴跳ばしならぬ、「下駄跳ばし」の笑えない遊びになった。
 もう一つ、座ってブランコをこぎ、地面に置かれた石を拾う「石拾い」なる遊びもあったが、こちらは、もっぱら女子主流の遊びでもあった。
 私のかかわる俳句の方では、ブランコにいろんな呼び名がある。それというのも、この遊びが昔から、子供達にいかに親しまれてきたかの証左である。
 そんな中の呼び名の一つに鞦韆(しゅうせん)がある。歳時記に入っている言葉だから俳人はよく使うが、一般の人には分かりにくい。
  鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし   三橋 鷹女
  鞦韆に腰掛けて読む手紙かな   星野 立子
といった具合いにである。
 文字ヅラから言っても、鞦韆とはいかにも中国からやって来た言葉らしいが、その通りなのである。中国の宋の時代に書かれた『事物起源』に、そのゆかりが書かれてある。斉の桓公(かんこう)と言えば、地方民族を討ち、諸侯と同盟を結んだことで知られている。その桓公が北夷征伐の折、土地の娘が細縄を樹にかけて、脚を上げて揺すっているさまを見、中国に伝えたことになっている。
 以後、中国では、このブランコを三月の寒食(かんしょく)の日に、婦女子がこれに乗って遊ぶ風習になっていく。寒食とは、冬至から百五日目に当たるこの日で、風雨が激しい日とされ、火を断ち、煮たきをしないで物を食べた。
 「春宵(しゅんしょう)一刻(いっこく)値千金(あたいせんきん)」で始まる蘇東(そとう)()の有名な詩「春夜(しゅんや)」の一節にも、「鞦韆(しゅうせん)院落夜沈々(いんらくよるちんちん)」と出てくる。「院落」とは屋敷の中庭のことである。
 私達が何気なく使っているブランコなる呼び名も、もともとはポルトガル語で、古くは、「ふらここ」「ゆさはり」が主流だった。





(c)yoshihiro enomoto



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