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【作品21】 |
2009/03/03 (第455回) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
謝肉祭だから魔女が出ようが鬼が出ようがさして驚かないが、魔女が霧の中に踊っているのを見て、不思議な感じがした。歳時記の季語としての「謝肉祭」は春ではなかったか。しかしながら、よく考えてみれば謝肉祭は二月下旬くらいだ。キリスト教の暦の上で一律に定めた日であるから、春の魁(さきがけ)の祝祭とは言ってもまだ寒い土地もあろう。実際、この八束のヴェネチアの謝肉祭では、零下になったり、凍てたり、霧がでてくる。海が近くて運河があれば、当然ながら霧も深くなる。だから、日本の歳時記の季節区分に拘っていては、地勢に基づく風土は見えなくなってくる。 もともと「謝肉祭」「巴里祭」などは、舶来の外国文化を俳句に詠み込むために日付を俳句の四季に分類しただけで、海外において本来の行事を詠むために作られた訳ではない。だから、海外の行事を日本の四季で一律に縛ってしまうのは、自由な詩の精神に悖(もと)る。たとえば、この句では「謝肉祭」が文化としての核であり、「四旬節に入る灰の水曜日の直前三日間」という規定さえ共通理解されれば、どんな自然風物を取り合わせてもよい。寒い地方ならば凍ててもよいし、温かい地方ならば陽炎が立ち上っても、リオのカーニバルならば裸が出てきてもよい。生活や自然の違いを虚心に楽しめばよかろう。 話がすこし本題から逸れたが、だから一句独立として読むならば、この句を日本の春として捉える必要はない。むしろ、ヴェネチアの風土に展開されている生活をそのまま味わうべきだ。春先には違いなかろうが、冬が舞い戻ってくることもある。冷えつのれば、霞や陽炎ではなく、霧に包まれても少しもおかしくはない。このように海外俳句をゆとりをもって大らかに受け止めながら、感受の幅を広げたり深めたりすることもこれからの俳句には必要ではないかと思う。 |
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『春風琴』平成9年作 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(C)2007 Masami Sanuka | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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