わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第2回 2011/3/18 


《原句》@

  春深むアフリカ象の耳ぺたり

 何とも面白いところに眼を着けたものです。アフリカのサバンナに生息するこの象は、耳の大きいことでも知られています。もちろん動物園でご覧になったのでしょう。野生の象なら、こんなふうにのんびりとはとても詠めません。「ぺたり」のオノマトペが絶妙。団扇のような大きな耳とその肌の感触まで、肉感的に想像させられます。
 中七下五の措辞が、舌足らずなもの言いであるのが逆に面白い効果をあげています。普通なら、
  アフリカ象耳をぺたりと春深む
のような形にするところでしょうが、原句の言い回しをこのまま生かしたいですね。
 そこで次に、季語がふさわしいかどうかです。〈春深し〉は、春たけなわの季節ではありますが、単に春らんまんという気分とはいくらか異なるニュアンスを感じないでしょうか。季節の盛りをそろそろ過ぎるのだという予兆とでもいいますか、翳りを内に含む言葉のようです。これは「深し」の語が醸し出すのでしょう。〈春深し〉は心の襞に分け入ってくるような情趣があります。
 ただし、この句の場合そういう情緒はむしろ排したい。もっとあっけらかんとさせたいのです。〈春昼〉などどうでしょう。象の巨体もそこはかとなく感じられてくるのではないか――少々、我田引水でしょうか。ともかくも、

《添削例》

  春昼のアフリカ象の耳ぺたり

 句中の切れはなくなりましたが、「ぺたり」の音が効いているせいで、これで何とか収まるのではないかと思います。

 


《原句》A

  通院の下駄箱にある春の泥

 表現意欲が湧くとき、その根っこには発見の驚きや喜びといったものがありはしないでしょうか。この作品でいえば、下駄箱に残っていた泥の跡にふと眼をとめたのがそれです。さらにそれを「春の(・ ・)泥」とみとめたのは作者の詩心にほかなりません。
 季語〈春泥〉は、雨や凍解け・雪解けによって生じるぬかるみで始末の悪いものですが、春の季節感をたっぷりと感じさせる言葉です。
 町の小さな個人病院なのでしょう。「下駄箱」に生活感があります。問題は「通院」の語ですが、これは文字通り病院などに通うこと、つまり、行き来する・何度も行くという行為になります。ここは「病院」「医院」としたほうがいいでしょう。さらに「ある」は無くもがなの言葉です。ではどうするか。音数も整えなくてはなりません。原句に近い形にするのなら、
  病院の下駄箱春の泥あまた(下五「(こぼ)れ」とも)
  春の泥あまた医院の下駄箱に
などですが、どうも事実をそのまま述べただけに終わりそうです。どういう病院なのか、もう一歩近づいてみましょうか。眼科、歯科、整骨院などありますけれど、

《添削例T》

  春の泥整骨院の下駄箱に

いくらか味が出てきませんか。
「春の泥」にもっと力点を移して考えてみることも出来そうです。原句の意図とは違うかもしれませんが、次のようにすることも出来ます。ご参考までに。

《添削例U》

  来院の靴春泥を踏み来しか

 


《原句》B

  志賀直哉旧居は閉ざし馬酔木咲く

 奈良の春日大社二の鳥居から春日の森を縫ってつづく、通称ささやきの小径。その尽きる辺り、高畑町に志賀直哉旧居があります。ご存知の方も多いでしょうが、まことに静かな環境の処で、この句の静謐さは旧居のたたずまいを髣髴とさせてくれました。
 志賀直哉は『小僧の神様』『城の崎にて』などによって知られ、〈小説の神様〉の異名を持つ作家でした。大正14年から昭和13年までこの地で暮らし、中断していた『暗夜行路』の結末部分も此処で書き上げたそうです。
 それらのことは知っていても知らなくても句を味わうのに直接関るものではありません。読み手はただそれぞれが抱いている志賀直哉の印象を、この句によって膨らますことが出来る、そういう許容量を持つ作品と思います。
 細かい部分で少し手直しをしてみましょう。「は」の助詞は強調や限定の意が強くなりますから外して「閉ざしぬ」と。また、「閉ざす」「咲く」と動詞が二つ重なるのもうるさいようですから「花馬酔木」とすれば充分でしょう。

《添削例T》

  志賀直哉旧居閉ざしぬ花馬酔木

 作者が訪ねたこの日は休館日だったのか、それとも夕暮近く閉まったところに行きあってしまったものでしょうか。白い馬酔木の花がひっそりと咲いているばかりだったのでしょう。「花あしび」と平仮名にするのも、柔らかい印象で良さそうです。
 そういえば、俳誌「馬酔木」を主宰した水原秋桜子に、奈良で詠んだものがありました。
  来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり
  馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ
 先述した、ささやきの小径も、馬酔木の純林の中にあるとのことです。

 


《原句》C

  晴れの日の雨の夜となる七日粥

 〈七日粥〉はご承知の通り正月七日に七種の菜を入れて食べる粥で、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロがその七草ですが、これを囃し言葉とともに叩くという風習があります。
 〈七草粥〉とも言われて、これを食べれば「万病を排し、邪気を除く」とか「魂魄の気力を増し、命を延ぶる」などとむずかしい由来もあるそうですが、要するにめでたいお(まじな)いと思えばよろしいのでしょう。もっとも、お正月のご馳走で疲れた胃には打ってつけの食べ物です。
  ゆきばらのけさもやめるや薺粥  久保田万太郎
  朝雲にむらさき残る七日粥    永島 千代
などを見ても分かるように、大抵は朝に食べるものでしょうが、そこはそれ何といってもこの現代、うるさくは言いますまい。作者は晩になって召し上がったようです。
 「晴れの日」というのはお天気のことか、それとも晴れがましい祝いごとの当日の意味か迷いました。いずれにしても、「日」が少々うるさい。前者の意味で手直しをするなら、

《添削例T》

  晴れののち雨の夜となる七日粥

くらいでしょうか。でもこれですと一日の天候の経過をただ述べただけになります。〈七日粥〉の季語の面白さによって一応のかたちになりますが、もう一押ししてみましょう。

《添削例U》

  そののちの雨の夜となる七日粥

「そののち」というのは、良くいえば含みを持たせた表現、悪くいえば思わせぶりということになりそうです。実は、原句の中七から下五に至る続き具合、しっとりとした情感に惚れこんだのです。それ以外はほとんど必要ないというくらいに。ですから上五はお天気であろうと何かの出来事であろうとどうでもいい。ぼんやりと何ごとかを匂わせるだけにとどめておきたいと思うのです。
なお、例に引いた久保田万太郎の句は漢字を当てると「雪腹の今朝も病めるや七日粥」となります。人事句の名手の、平明にして味わいのある句です。

 


《原句》D

  酢を打ちし白米ひかる春ちらし

 台所仕事の喜びに溢れた句ですね。散らし鮨は料理上手の腕の見せどころ。酢を吸いこんだ御飯は実際眩いばかりの照りを見せますが、作っている人の気持ちの輝きのようです。
 一句の眼目はもちろん「白米ひかる」ですが、「白米」は精白した生米のこと。ここでは炊いた御飯の筈です。そして末尾に置いた「春ちらし」。これは熟していない言葉と思います。言いたいことはよく分かるのです。春先の旬のものを取り合わせた散らし鮨なのでしょう。もっと残念なのは、上のフレーズに説明としてのオチをつける結果になっていること。句に広がりを持たせたいですね。
 この料理を作った背景を考えてみましょうか。何かのお祝いごと、もしくは行事ではなかったのでしょうか。たとえばですが、

《添削例》

  酢を打つて飯粒ひかる春祭

 「打ちし」でなく、「打つて」としたところにも眼をとどめてみて下さい。「し」は過去回想の助動詞「き」の活用形、などと文法のしちむずかしいことを持ち出さなくとも、「打つて」とした場合、ただいま眼の前で行なわれている動作といういきいきした感じがしませんか。






(c)masako hara



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