わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第4回 2011/4/1 


《原句》①

  叔父逝きぬただただゆれし青田かな

 亡くなられた(かた)がどんなに大切な存在だったか、一読して伝わります。幼い頃はもちろん、大人になってからも変わらずに慈しんで下さった叔父様なのでしょう。
 眼前に広がる青田の景色が、取り残された寂寥感をいっそう募らせます。
 亡き人を心ゆくまで偲びたい、思いの丈を述べ尽くしたい、それが自然の情でしょうが、言語表現において、いえ、ほとんどの芸術においても、これでもかとばかりに表現することは逆の結果を招きます。
 まして俳句の短さでは縷々述べることなど到底出来ません。何ほどのことも言えない、それを逆手に取るのが俳句の形式といえるでしょう。作者の気持ちを読み手に押しつけるのではなく、そこはかとなく汲み取ってもらうこと。それには抑制された表現が求められるのではないでしょうか。
 原句でいえば「ただただ」のリフレインが押しつける部分に当たります。状景としては青々と育っている稲が風に揺れている。それを示すだけで充分なのだと思い切ることが出来るかどうか。
 作者は青田の広がりだけでなく、風に騒立つ青田だったからこそ哀しみを呼び覚まされたと思います。〈青田風〉〈青田波〉という季語もありますけれど、作者の立っている位置を加えてみましょうか。

《添削》

  叔父逝きぬひたすら風の青田道

 原句・添削例ともに上五ではっきり切れがあります。ここで詠嘆の間合いがあって、以下に続くのですが、原句の下五「かな」は再び強く切れてしまいます。これは外しておきたい。心情の流れとしては、一句を読み終えてなお谺のように幾たびも元に戻って「叔父逝きぬ」の感慨をひびかせたいのです。先人が俳句の味わいについて言っている〈行きて帰る心〉というのは、このあたりの機微を指すのでしょう。
 「青田」という言葉は、何気なく使われていますけれど、この〈青〉一字が入っているために淋しさが滲むような働きをしています。作者の季語選択の良さです。
 故人を悼む句には次のようなものもあります。
  塚も動け我が泣く声は秋の風    芭 蕉
 抑制して詠むのが大事と言いましたけれど、一方でこういう作品もあるということは、頭に入れておくべきですね。
「こみあげる哀悼の情があふれたのだ。口を衝くようなこの句の激越な勢は、叫びに近いものがある」という加藤楸邨の鑑賞があります。
 もう一つ、最近の句からは、
  一瞬にしてみな遺品雲の峰     櫂 未知子
があります。母の死という個人的事情を越えて、人の死の本質を手摑みにして見せてくれたような作です。

 


《原句》②

  ざわざわと山の音する芽吹かな

 山中の樹木がいっせいに芽吹きの季節を迎えている。「ざわざわ」は実際の音というよりは気配ですね。それは山の芽吹きそのものの気配である、という句意かと思います。
 山の中で聞く風鳴りなども「山の音」ということは出来るでしょうが、この句の場合は多分に心象的に使われています。芽吹きを感覚的に捉えている。「山の音」イコール「芽吹き」との意をもう少しはっきりさせると、一字の違いですが、

《添削》

  ざわざわと山の音なる芽吹かな

 となるでしょうが、この「ざわざわ」のオノマトペ、気配としても、また実際の音としても、やや平凡かもしれません。工夫したいところです。
 オノマトペの名手といわれた秋元不死男に次のような例があります。
  鳥わたるこきこきこきと罐切れば
  へろへろとワンタンすするクリスマス
 ものの手触り、質感が際立っています。お手本にしたい二句です。

 


《原句》③

  蕗の薹放ちし水のふつと匂ふ

 原句②ではオノマトペを取り上げましたが、こちらは「ふつと」という副詞。現代仮名遣いの表記なら「ふっと」ですが、瞬時に起こった状態を形容します。
 蕗の薹は早春を代表する色と香り。ここで、いくら強い香りでも実際に水までが匂うかどうかなどという詮索はやめておきましょう。蕗の薹を水に放ったときの作者の一瞬の感興が、ここでの主題なのですから。直感的な把握というべきですね。読者は、春まだ浅い頃の水の冷たさと、緑そのものの香りを感じとればそれでよいのでしょう。
 そこで、「ふつと」に拘りたくなります。なるほど作者の言いたいのはそこなのですが、その点こそ、言わず語らず読者に感じてもらうべきものかもしれません。作者は全部言ってしまったのではないでしょうか。
  蕗の薹放ちし水の匂ひけり
 ぐっと怺えてこのくらいで言いたいことを我慢しておいてもいいのですが、おそらく作者はもの足りないでしょう。では、

《添削》

  蕗の薹放てば水の匂ひけり

としてみます。ご参考下さい。

 


《原句》④

  甘そうな空たんぽぽが舌を出す

 まあ、どうしましょう。まるでタンポポが舌舐めずりをしていそうですね。舌を出すといえば、蝮蛇(まむし)草(春)や浦島草(夏)などの肉穂(にくすい)の形状を思い出しますが、そうそうタンポポは舌状花冠の代表的な花。作者、博識ですね。舌状花の語からの連想なのでしょう。
 うららかな陽春の空を「甘そうな空」としたのは素敵。ああそれなのに、と文句をつけたくなるのは「舌を出す」。少々面白がりすぎましたね。作者のユーモアでしょうが、勿体ない。滑稽な句もたまにはありたきものと思いますが、この場合はいただけない。
 いかがでしょう、「絮飛ばす」としてみては。「飛」は平仮名表記でも。

《添削》

  甘そうな空たんぽぽが絮とばす

 原句もそうでしたが、下五は動きのある景がいいですね。平面的な「空」との対比が生きてきます。
 「甘そうな」は歴史的仮名遣いでは「甘さうな」ですが、作者は現代仮名遣いを採用しておられるようです。「が」の助詞も口語的語感があって、句柄にふさわしい。

 


《原句》⑤

  煮物やや甘めを好み春燈 

 つつましやかな日常の幸福を絵に描いたら、こういう場面かという気がいたしました。一家揃って甘口好み。永い春の日もようやく暮れて、柔かな灯りのもとでの夕餉。
 人の暮らしに欠かせない「灯」は四季それぞれの趣きで詠まれますが、この句はほのぼのと幸せそうな春の灯が似つかわしい。
 そこで、もう少し工夫してみましょう。家庭の味を概略的に説明している上五中七のフレーズですが、この「煮物」を具体的に言ってみたい。庶民の生活感に溢れた食べ物、何がいいでしょう。根菜、豆類、乾物類、いろいろありますが、取りあえず、

《添削》

  がんもどき少し甘めに春燈


 原句の説明調が薄れて、状景がはっきり見えてくる気がするのですけれど。


column》

 この連載が始まったのは三月十一日。今回の東北関東大震災当日でした。地震、津波、その直後からの原発の不安はつづいています。
 そんな中で、句会の仲間から「安穏な場所で句を詠んでいるのは後ろめたい」との声がありました。誠実な言葉です。この(かた)にしても関東圏在住ですから、放射能被害の不安を抱えているのです。
 これに答えるどんな言葉も持ってはおりませんが、この後ろめたさこそ忘れてはいけないことと思っています。その上で、出来ることなら、どのような立場からであれ、この未曽有の出来ごとを記録しておきたい。それが俳句の末端に繋がる者の責任のように感じるのです。



(c)masako hara



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