わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第6回 2011/4/15 


《原句》①

  春ショール巻いて小川をまくような

 一読、んっ? と眼を丸くしてしまいました。いくら小さいとはいえ川は川。それなりの空間や長さを思わせますから、かなり唐突な印象を受けてしまいます。まかり間違えば首に巻きつく蛇を連想することにもなりかねません。せっかくの春ショール、薄絹やレースのかろやかさが生きるようにしたいですね。
 「小川をまく」という比喩で、作者は何をイメージさせたかったのでしょう。もしかすると小学唱歌〈春の小川〉の、のどかな陽春の気分が無意識に影響していたかもしれません。それにしても「小川」では大雑把で、意図が伝わりにくい。「小川」のどういうところをイメージしたのか、一歩近づいてみます。水の流れや波のきらめき、そういうことではなかったのでしょうか。春ショールの感触がそれらを連想させた、これは若々しい感覚です。
 「巻いて……まく(巻く)」と言葉を重ねて、しかも漢字と平仮名の使い分けをしている細やかな工夫があるのですが、何といっても一句に切れのないのが残念。引き緊まった表現にしたいものです。原句の意図に添いながら、取りあえず句中に切れを入れますと、
  春ショール巻きぬ(さざなみ)を巻くやうに
といったところでしょうか。「ように」は歴史的仮名遣いでは「やうに」。この、〈ように〉とか〈ごとく〉は比喩の中でも直喩と呼ばれるものですが、これらの語を削ることも出来ます。
 さらに、「巻く」を重ねて使っているのもそれほど効果はなさそうです。では、

《添削Ⅰ》

  さざなみの光の春のショール巻く

 春ショールが漣の光そのもののようになってきます。表記を漢字にするか平仮名にするかは作り手の好みになりますね。
 以上は、春ショールだけを詠んでいるのですが、原句の「川」のイメージも捨てがたい。どうでしょう、ショールに対比させて川の風景も浮かぶようにするというのは。句に広がりも出てきますし。たとえば、

《添削Ⅱ》

  春ショール巻きぬ川面のきらめきに

「巻く」動作を省いて、遠近の距離感を強めると、

  春ショール遠き川面の輝ける

 風景に心情を托す、という方法があります。客観的に景を描いて、その先は読み手に感じてもらう。こういう方向も考えていってほしいと思っています。

 


《原句》②

  水琴窟鳴らせし人の春コート

 水琴窟、変わった素材に着目なさいました。この句は春季ですが、ちょっと脇に逸れて、春夏秋冬それぞれの季節で水琴窟の音を想像してみて下さい。音色が違って感じられませんか。夏は涼しく、秋は淋しく、冬は冷え寂びて鋭い、と言えば単純にすぎますが、季節感というものの面白さをこういうところにも感じます。季語の面白さもこの延長上にあるような気がしています。その集大成としての歳時記は先人の遺してくれた偉大な財産だとつくづく思います。
 閑話休題。原句は、たまたま眼にした光景を軽いタッチでデッサンしたという趣きです。
 一つの出来事が臨場感をもって描かれているかどうかが、この場合成功の決め手です。まず、無駄な言葉を削ってみましょう。
 「春コート」だけで、着ている人であることは分かりますから「人の」はいりません。さらに、原句の構成では「春コート」に焦点が絞られるのですが、おそらく作者の最初の興味は、水琴窟を鳴らしたことと春コート、その両方だったのではありませんか。それならば、

《添削》

  水琴窟鳴らして行けり春コート

として、動きのある情景にしてはいかがでしょう。

 


《原句》③

  蕗味噌を噛みて縄文人となり

 蕗の薹をこまかく刻んで味噌と和える。ほろ苦さの中に鮮烈な香りがたって、いかにも早春の食べ物という感じがします。作者は、その野趣に富んだ味と香りから、原始時代の人類のいきいきした野性を思い起こしたのでしょうか。飛躍の大きい捉え方ですが納得させられます。
 さてそこで、「噛みて」ですが、蕗味噌は〈舐める〉とは言いますけれど〈噛む〉となると違和感があります。噛むほどの歯ごたえはないものですし。ただし作者は〈舐める〉という語感を嫌ったのかもしれません。
 「縄文人となり」も一考の余地がありそうです。現実に縄文人になれるわけはありませんから、少々強引でしょうね。強引な表現が生きる場合ももちろんありますが、この句ではもっと穏当な表現が似合いそうです。

《添削》

  蕗味噌に縄文の世を(おも)ふなり

 原句の作句意図からすれば大人しすぎる形かもしれませんが、ご参考までに。
 縄文時代に材をとった痛快な句がありますのでご紹介しておきましょう。
  人類の旬の土偶のおっぱいよ    池田 澄子
 無季の句です。作者は三橋敏雄に師事した人。〈元始、女性は太陽であった〉との平塚雷鳥の言挙げを彷彿とさせる作品ではありませんか。

 


《原句》④

  親につく折々の嘘草の餅

 おやおやどうやら作者は何かあるたびに、ということはちょくちょく、親を瞞着しておいでらしい。でもまあ嘘も方便。良かれと思って()く嘘もありますもの。〈おふくろは勿体ないが騙しよい〉との、放蕩息子(多分)の川柳とは違うのでしょう。
 蓬を搗きこんでぼってりと仕上げた草餅。粒餡もたっぷり入った素朴な手作り、そんな鄙びた甘みが、明るいユーモアを醸し出します。
 折々・たびたび・時々、どのくらいの回数を設定するのが内容にふさわしいでしょう、また、〈嘘〉が印象的に感じられてくるでしょうか。結論を申しますと、〈時々〉くらいの方が、後ろめたさが背後に感じられて良さそうに思うのですが。
 語順を入れ換えて、強めてみます。

《添削Ⅰ》

  時々は親につく嘘草の餅

 もう一点、この「親」を父か母かに絞ると別の味が加わるようです。〈父〉ではあまり意味をなさない、やっぱり〈母〉でしょうね。そうすると、「時々」という限定も不必要。その時その場のこととしておきたい。

《添削Ⅱ》

  母親に嘘ついてゐる草の餅

 〈ついてをり〉と文語を使っても意味は同じですがやや重くなる。口語でかるく収めてみましたがどうだったでしょう。

 


《原句》⑤

  春分の日からくり時計故障
 

 春分は二十四節気の一つで、だいたい三月二十一日頃。彼岸の中日です。この日、昼と夜の時間がほぼ同じになります。太陽は赤道上にあって、真東から出て真西に沈む(多少のずれはあるようですが)。
 あらためて考えてみると天体の運行はずいぶん規則正しいものですね。おそらく作者もそのように感じたのではないでしょうか。それに比べて、「からくり時計」の方は、精密であるべき仕掛が壊れている。その対照に興味を覚えたのが作句動機だったかと推察します。
 もっとも、この二者の対照をあまり強調しすぎると、理屈だけの句で終わってしまいますから、ほどほどの兼ね合いで。
 〈暑さ寒さも彼岸まで〉といわれるように、春分の頃には寒さの戻りも稀になり、日向ではうっすら汗ばむ陽気になります。こちらの印象が前面に出るようにして、リズムの破調も整えてみましょう。

《添削》

  春分のからくり時計故障中

 原句では、たった今故障したように受取れるのですが、それよりは「故障中」と継続状態である方がのんびりした気分が出るようです。上五の助詞「の」は、「や」の切れ字を使ってもよろしいでしょうね。作者の好きな方を選んで下さい。


《reference》

 漢字の表記について。原句③の添削例では〈おもふ〉に〈憶〉の字を当てています。普通には〈思〉で通用することですが、漢字の持つ意味を心得て使い分けるのも一つの方法でしょう。
 〈おもふ〉(現代仮名遣いでは〈おもう〉)には、思・想・憶・懐・念などの文字が当てられます。漢和辞典の意読の項を見れば読みが分かります。一口に〈おもう〉といっても、深い思念もあれば回想もあり感慨もあり、というように言葉が豊かに感じられてきます。
 一般に通用する文字だけを使用するというのも一つの見識ですが、知っていて損はありません。



(c)masako hara



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