わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第7回 2011/4/22 


《原句》①

  塩梅(あんばい)は今一つなり豆の飯

 豆御飯と聞いただけで、豆の緑と御飯の白さが鮮やかに眼に浮かびます。
 栽培技術や保存方法が進んで、一年中食べられる野菜も珍しくなくなった昨今ですが、豆御飯はいまも変わらず旬の季節を感じさせてくれるお料理です。場合によっては蚕豆や枝豆なども使うと聞きますが、大体はグリーンピース、「ゑんどうむき人妻の悲喜いまはなし 桂信子」と詠まれている、あの剥き豌豆を使うのが一般的でしょう。
 女性や子供に喜ばれそうに思いますが意外に左党の男性にも好まれるようで、歳時記の〈豆飯〉の項には男性の句が多く載っています。塩味だけで単純に仕上げるだけに返ってむずかしいもので、得心のいく出来映えになるには主婦の年期がものをいうのかもしれません。
 日常の一些事を掬いとって、素直に詠まれた句です。上五の「は」の助詞は限定の意が強くひびきますから「の」を使っておきます。

《添削》

  塩梅の今一つなり豆の飯

 身近に題材を取った人事句は、風景句の恰幅とは別の、こまやかな味わいがありますね。
 写生の名手といわれた高野素十にも次のような句があります。
  柔かに出来しと詫びて豆の飯

 


《原句》②

  花びらの踊る形に辛夷かな

 三、四月頃、青空を背景に純白の辛夷の花を眼にするとき、まさに春、いい季節になったと嬉しくなります。同じモクレン科の白木蓮に比べて、辛夷は花びらの肉質が薄く軽やかですから、「踊る」という把握にも無理がありません。辛夷の花の形状を意欲的に捉えています。
 五七五の句形も整って出来ている句ですが、欲を言えば「形に」という措辞にやや説明臭さがありそうです。「踊る」という動きのある把握をしたにもかかわらず、静止した印象を与えるのは「形に」とまとめたためでしょう。〈ごとく〉や〈ように〉の直喩に近い使い方です。辛夷の生命感をもっと出してみたい。たとえば、

《添削》

  花びらの踊らんとして辛夷かな
  踊りつつ辛夷は花を尽くしけり

としてみました。本当なら、辛夷といえば花を指しますから、「花びら」と重ねて使うのは避けたいのですが、この場合は仕方がないですね。
 さらに、原句は「踊る」と見たところに手柄があるのですが、辛夷の花の清楚なイメージを表すのにふさわしい言葉をもう少し探ってみましょうか。〈さざめく〉とか〈さはさは〉など、どうでしょう。添削例の後句、
  さざめきて辛夷は花を尽くしけり
というふうに。
 作者は花そのものを詠みましたが、これを、花を取りまく状況や空気感のようなものを含めて描きますと、
  さざめきて夕べの風の花辛夷
ともなります。ちょっと優しすぎましたか。作者は男性ですから感じ方の違いも当然ある筈です。要は、それぞれの個性による表現が万人に通じる共感を得られるかどうかです。

 


《原句》③

  新蕎麦や打ち出している太き指

 新蕎麦は秋早めに刈った蕎麦を粉に挽いて作る。走り蕎麦、初蕎麦とも言って、蕎麦好きにはこたえられないそうです。季節に先駆ける喜びが蕎麦打ちの力強い動作を眺める視線にもうかがわれます。
 「や」の切れ字は軽く使う場合もありますが、多くは飛躍の大きい間合いを構成します。この句の場合はそこまで間合いを取る必要はないでしょう。上五中七を続けて、動きを前面に出したほうがいい。
 下五に置かれた「太き指」も、上の部分の説明を受けてオチをつけた形にとどまっています。蕎麦打ちのがっしりした手が躍動するように表現したい。

《添削》

  新蕎麦を打ち出してをり指太く

 原句の「いて」は歴史的仮名遣いでは「ゐて」。作者が現代仮名遣い採用ならば添削句の「をり」は「おり」となります。

 


《原句》④

  村は五月援農隊のバスツアー

 愉快な句ですねえ。五月といえば田植えの時期。都会生活者が農家と契約して農作業を体験するツアーなのでしょう。お手伝いとはいいながら、実のところは足手まとい、作業の足を引っ張っているのかもしれませんが、それも楽しい笑いのうち。援農隊と称していっぱしのお百姓気分、といったところでしょうか。
 上五を「村五月」として五音に収めることも出来るのに、わざわざ六音の字余りに伸ばしているのは作者の技ですね。この緩いリズムのおかげで、のどかな気分が増幅されました。字余りをこんなふうに利用することもあります。
 同じ作者の句で、
  初買ひの大辛七味唐辛子
 〈初〉の字を冠する言葉には賞美する心持ちが働きます。初旅・初湯・初電車。気象に関する語では初雪・初霜・初時雨など。
 お正月初めての買物という浮き立つ気分に、意表をつく「大辛」が照応して何とも楽しい。
 二句ともに、形容詞や動詞といった用言を使わず、名詞だけで成り立っています。個々の言葉が無理なく結びついていて巧みです。

 


《原句》⑤

  (はま)万年青(おもと)残し飲屋は店仕舞

 小説の一情景のようですね。浜万年青は浜木綿(はまゆう)のこと。暖地の海岸に自生しますが、栽培もされます。せっかくですから句の背景に、海べりの小さな漁師町を想像してみたい。潮の香が漂ってきそうです。
 景はとてもよく分かりますが蛇足の部分に手を入れてみましょう。「残し……店仕舞」ですが、店を畳んでしまうのなら「残」るのは当然。浜万年青は傍らに咲いているだけでいい。となると、
  浜万年青咲いて飲屋の店仕舞
のように、さっぱりしますけれど、おそらくこの植物は飲屋の主人が好んで植えたのでしょう。そのあたりの機微を感じさせたい、これは作者の譲れないところかと思います。内容からいっても、いわゆる写生に終始した作ではない。むしろ、市井の哀歓的な情趣をちらりと覗かせたいといったタイプの句です。では、人為的な意図を加味して、

《添削》

  浜万年青咲かせ飲屋の店仕舞

でどうでしょうか。店先に植えられていた浜万年青は店の目印になって、酔客の話題に上ることもあったかもしれません。商売の盛衰とは別に、花は盛りの季節を迎えている、と。


《column》

 原句①で触れた〈人事句〉は、文字通り人事に題材を求めた俳句のこと。人間社会の出来事や、それに伴う感情などが詠まれます。
 俳句を「家常生活に根ざした抒情的即興詩」といった久保田万太郎は、その言葉を実践するすぐれた作を多く残して、人事句の名手として知られた人です。小説家・劇作家であったこの人は人間の営みの喜怒哀楽を深く知る人でもありました。
  竹馬やいろはにほへとちりぢりに
  パンにバタたつぷりつけて春惜む
  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
いずれもよく知られている句です。



(c)masako hara



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