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第8回 2011/4/29 あ | |||
《原句》① 花篝舞上がるもの花びらも 花篝は夜桜を観るために焚く篝火のことです。現在のようにどこもかしこも煌々とライトアップされていますと、篝火の必要もないと思ったりしますが、本来の目的のそれはそれ、夜桜見物に趣きを添える効果は充分果たしているようです。燃え盛る炎の揺れが桜に陰翳をもたらして、やはりなかなかのものです。華麗であると同時に幻想的な妖しさで桜が浮かび上がります。 歳時記や事典などでは京都円山公園の花篝が主に紹介されていますが、たまたまインターネットで富士宮市狩宿の下馬桜での写真を見つけました。興味のある方はひらいてみて下さい。 ついでですがこの下馬桜、駒止桜ともいわれて、『さくら大観』で確かめてみましたら源頼朝が馬を繋いだとされる古事からの命名。種類はシロヤマザクラで、山桜としては最大最古の名木とされているそうです。 さてそこで原句に戻ります。炎の勢いが、散りかかる花片を火の粉とともに吹き上げている状景でしょうね。 「舞上がるもの花びらも」の解釈に少し迷いました。花びらも舞い上がるものなのだ、という判断を示しているのなら、〈花びらも舞上がるもの〉という語順がしぜんです。それなら、 《添削Ⅰ》 花びらの舞上がりけり花篝 として、実体が素直に見てとれる形に収めましょう。 もう一つは、花びらの他に「舞上がるもの」が別にある、という解釈です。これですと、原句のままでは舌足らずの表現になってしまいます。それが何なのかを言うべきでしょうね。思いつくのは火の粉や炎ですけれど、とりあえず、 《添削Ⅱ》 舞上がる としてみました。「花篝」を上五でなく下五に置いたのは、リズムの点からもですが、句の中心は「花篝」にありますから、そこに言葉が収斂していくようにしたかったためです。 実は原句を一読したとき、「舞上がるもの」で作者は花の情念を言いたかったのかとも思ったのです。でも、あれやこれやを取りこむのではなく、まずは具体性を大事にしてそこから余情として現われるものを待ちましょう。 〈雪月花〉は日本の詩歌における代表的な風物ですから、その季節に一句ぐらいは詠んでおきたいものです。先達のすぐれた作例も併せて読んでみることをお勧めいたします。今回の〈花篝〉は〈花〉のバリエーションということになりますね。次のような例句があります。 花篝衰へつゝも人出かな 高浜 虚子 花篝月の出遅くなりしかな 西島 麦南 ![]() 《原句》② クレヨンに足らぬ色あり春惜しむ ここでの惜春の情はいいですねえ。「春惜しむ」の季語の選択、抜群です。 クレヨンは子どもの頃によく使いました。ちょっと昇格してクレパス、それから絵具という順番でした。イラストレーターなどで専門的に何十色というクレヨンを揃える人もいると聞いたことがありますが、この句はごく普通の、日常使いのクレヨンの箱。昔の記憶で不確かですが二十四色とかせいぜい三十六色とかだったような気がします。 折れたり失くしたり、しょっちゅうでした。クレヨン箱には隙間が出来て、かさかさ心細い音がしたものです。 箱を開けてそんな隙間を見つけたときの軽い齟齬感。言い表しようのない、心の小さなそよぎをそっくり代弁しているのが「春惜しむ」の感傷でした。 中七は「足らぬ色あり」ですが、この場合「色」は必要だったでしょうか。無くなっているということだけにとどめたいのです。それ以外の要素はむしろ余分な気がします 《添削》 クレヨンに足らぬ一本春惜しむ 実際には数本紛失しているとしても、ここは是非とも一本にしておきましょう。たった一つ、とすることで印象が鮮明になるのではないでしょうか。 ![]() 《原句》③ 真間の井や蕭々として竹落葉 静かな風情の句です。真間の井は下総国葛飾、現在の千葉県市川市にあります。よく知られていますがちょっとおさらいをしておきますと、古代の伝説に真間手児奈という美少女がいて、多数の男性の求婚に思い悩み入江に身を投げたとされています。真間の井はその手児奈がいつも水を汲んでいたと伝えられ、万葉集には高橋虫麻呂が と詠っています。 「竹落葉」の季節は初夏。竹や笹は一般の草木と異なり、春には葉が黄ばんで(これを〈竹の秋〉といっています)、もう少し経つと葉を落としはじめます。 作者は手児奈の伝説に思いを馳せて、そのような哀話を秘めた井に、いまは竹の落葉が降るばかり、と感慨を催されたのでしょう。 レベルの高い句です。その上で、もう一段上を望みたく思うのです。この場合でいえば「蕭々として」が再考の余地のあるところ。〈ものさびしいさま〉という意味ですが、一句の気分はまさにこの通り。いわば駄目押しとなる部分です。読者に、このように受け取って下さいと 《添削》 真間の井や竹の落葉のひとしきり としてみました。いかがでしょう。作者はおそらく「蕭々」の語を見つけたとき、出来た、と思われたかもしれません。でも往往にして、そう感じたときが曲者です。言い過ぎていないか、恰好が良すぎてはいないか、常に振り返ってみて下さい。 ![]() 《原句》④ 貧しさは真似ばかりするチューリップ この内容は中七で切れて、チューリップを取り合わせているのでしょうね。少々分かりにくいのですが〈人真似をするのは心の貧しさからだ〉という意味かと解釈しました。 上五中七のフレーズは、抽象的に概念を述べていることになります。なるべくなら、自分の経験や体験などを具体的に表現した方が作者の真実が現われるのですが、概略的に括って言ってしまうと、客観的な他人事のようになって、切実さが失われやすいのです。もちろん一句の内容が普遍性を持った名句も例外的にあります。 降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男 これは代表的なものですが、よほどの場合と心得ておきましょう。と、釘をさしておいて、さてそれでは原句を生かす方向で見ていきましょう。問題はまず「貧しさは」の「は」。この限定・強調のために格言的になるのですから、これを工夫しましょうか。「人真似の心貧しく」、もしくは「人真似をする貧しさよ」など、原句の言葉に添って考えてみましたが、明るいイメージのチューリップとは落差がありすぎるようです。 それならいっそ原句のネガティヴな表現を逆方向から捉えてみてはどうでしょう。人真似ではない自分、本当の自分らしさ、という視点で詠んでみては。たとえば、 チューリップ自分らしさを忘れずに などと。もっとかろやかにするなら、 《添削》 私は私らしくチューリップ ともしてみましたが、どんなものでしょうね。ともあれ、ご参考までに。 ![]() 《原句》⑤ 咲き満ちて今日大木に桜かな 満開の桜、それだけで勝負した作品です。「今日」一語によって句が生動しました。難点は「大木に」の「に」です。大木に桜がとまっているような書き方になってしまっています。大木イコール桜なのですから、これは「大木の」として、一つづきの言葉にいたしましょう。 《添削》 咲き満ちて今日大木の桜かな ここから次に考えていく課題として、桜(他の花の場合も)に対して「咲き満ちて」はよく使われる手垢のついた表現です。ほかの誰でもない自分だけの捉え方を目指していきましょう。頑張ってください。 《aside》 ![]() 今回は桜関連の作品が二句ありました。桜前線は関東を過ぎて、東北がいま満開を迎えているようです。被災地の桜のニュースも眼にしました。まだまだ大変なことでしょうが、いくらか明るい気分になります。 先日、根尾の淡墨桜を見てきました。その様子をお知らせしたかったのですが、その後、転んで肋骨に罅が入ってしまったおかげで、現在書くのが少し不自由です。次回以降にご報告したく思っています。 |
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(c)masako hara |
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