わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第9回 2011/5/13 


《原句》①

  飛花落花訪ふや絵島の囲み部屋

 史実を題材にとって絢爛たる趣きに仕立てた作品です。
 大奥御年寄の絵島が歌舞伎役者生島新五郎との遊興を咎められて、生島は流罪、絵島は信州高遠へ幽閉された、いわゆる絵島生島事件。男子禁制の大奥に仕える奥女中と人気役者との悲恋として、芝居や小説にたびたび取り上げられ映画やテレビ化もされていますから、知らぬ人の方が少ないくらいでしょう。
 この事件、実際には大奥粛正の名目のもとに、当時の権力闘争の犠牲になったというのが今日の見方として定着していますが、史実を伝えるものとして絵島の囲い屋敷が復元されています。
 高遠は桜の名所、作者は花吹雪舞う時期にこの地を訪れ、時代に翻弄された女人の哀れにそぞろ感慨に耽られたのでしょう。
 「飛花落花」とたたみかけて、さらに「訪ふや」と擬人法を駆使したところに、心の昂りがうかがわれます。語勢の急調子は、一気にこの句が出来たことを思わせますが、一歩退いて静かに作品を眺めてみましょう。「飛花落花」「訪ふや」、二つの措辞は思い入れが強くひびいて、読者の想像の余地をせばめてはいないでしょうか。
 しきりに散る花びらと絵島の囲み部屋。それだけで、歴史を知る人にはしみじみした情感が受けとれる筈なのですけれど。とはいえ上五は思わず口をついて出た言葉という切迫した語調がありますから、こちらを生かして、花が「訪ふ」という擬人化の主情的表現を外してみてはいかがですか。そうなるとこの空白部分をどう埋めるかですね。
 二十八年の長きに渡って幽閉され続けた女性の運命がそこはかとなく浮かび上がるような、そんな架け橋になりそうな言葉がないものでしょうか。一案ですが、

《添削》

  飛花落花むかし絵島の囲み部屋

としてみました。「昔」を「むかし」と平仮名にしたのは、字面(じづら)が重くならないためでもありますが、絵島という女性にやわらかな印象を添えたいためでもあります。
 「むかし」の語を加えることで、読む側の意識も遠い時代へ遡りやすくなるのではないか、そんなふうにも思うのですが。

 


《原句》②

  初鰹ぐいのみ殊に馴染みたり

 女房を質に置いても、という江戸っ子のセリフをたちまち思い出します。当時はそれくらい高価なものだったそうですが、初物好みの江戸っ子の心意気としても、言われる女房はたまったものではありません。それはともかく現在だって、いける口の人には一献汲むのに弾みがつく肴のようです。初夏を代表する走りの魚。
 ぐいのみが「殊に馴染む」のは、自分の手に馴染むのか、初鰹に似つかわしいということか、迷いました。前者ならば、
  ぐいのみの手に馴染みたる初鰹
とすれば意味がはっきりしますが、原句を読み返してみると、どうやら作者の言いたかったのは、初鰹を前にしてお上品な盃などは似合わない、大ぶりのぐいのみこそがふさわしいと興じておられるのだろうと納得しました。「殊に」と強調しておいでですものね。この打ち興じた心持ちを前面に出すと、豪快に、
  ぐいのみのふさわしからん初鰹
ともなりますけれど、まあまあ抑えて、原句の措辞を生かしましょう。

《添削》

  ぐいのみの殊に馴染める初鰹
  初鰹ぐいのみ殊に馴染みたる


 前句は「初鰹」を下五に置いた一句一章、つまり句中に切れを入れず一続きに読み下した形です。これなら、先に述べたような〈ぐいのみは自分の手に馴染む〉のであって「初鰹」は取り合わせ、という解釈は避けられるかと思います。
 それは後句も同様です。「たり」の終止形を「たる」の連体形で止めてみました。もちろん原句は形式上なんの難点もありません。俳句の姿が整っています。ただこの場合、上五の名詞が強く切れたところへ、次に続く中七下五のフレーズが独立してさらに大きく切れますので、前述した解釈の誤解を生むようです。それを避けるために、下五を連体形にとどめて、やわらかく上五に帰っていく気分を出したかったのですが、さてどんなものだったでしょうか。ご参考下さい。

 


《原句》③

  花疲れでもなく夫の口重き

 表現し難い微妙な気分が言いとめられています。日常生活の中でこういうことはよくありますが、言葉に表そうとすると難しいものです。疲れたわけでもないのに夫の口数が少ない、というたったこれだけのことに、気怠いような陰翳を添えたのが「花疲れ」の季語でした。季語・季題はゆたかな連想作用を生みだして一句の世界を広やかにしてくれます。
 「でもなく」と捉えたところが眼目ですが、日常語すぎて少々だれてしまうようです。これは是非、文章語に近い「ともなく」を使っておきましょう。原句は切れの無い形で終わっていますから、なおさら格を高める言葉にしておきたいのです。

《添削》

  花疲れともなく夫の口重き

 末尾を切って止めるなら形容詞終止形で「口重し」とするところなのですが、全体に気怠い気分を通わせて、原句のままの連体形で終わるのも一つの方便でしょうね。切れの無い句であるということを心得ておいて下さい。作句の場合の例外として。

 


《原句》④

  花いかだ親指姫のすわるごと

 ハナイカダという植物があります。葉の真中に小花が集まっている変わった形のものですが、それでは花の形状を比喩で言い換えただけに終わってしまいます。
 作者の意図と異なるかもしれませんが、「花いかだ」を、水面に散り敷く桜の花びらを表した季語の方で鑑賞してみましょう。
 こちらでは、親指姫の姿にあたるものがありません。「花いかだ」はいわばお座布団ですものね。では、すわっているのではなく、すわらせてみたいという空想の範囲になります。「花いかだ親指姫を乗せたしよ」くらいでしょうか。それにしてもこのメルヘン的な発想がやや常套的な感は拭いきれないようです。もう少し揺さぶりをかけて、上五字余りになりますけれど、

《添削》

  親指姫を乗せてもみたし花いかだ

としてみます。乗せたい、といえばそれなりけりですが、こんなこともしてみたい、という、幅をもたせるといいますか含みをもった表現にしておくと、いくらか常套的な印象が柔らぐように感じますけれど。取りあえずの一例です。

 


《原句》⑤

  洗はれて朝の新樹の匂ひ立つ

 新樹のすがすがしさを言い尽くしたいという作者の意欲を感じます。そのための言葉が揃っているのですが、足りない部分・過剰な部分を見ていきましょう。
 まず、「洗はれて」。分かるのですが、これは「雨に洗はれる」としなければ成り立ちません。次に末尾の「匂ひ立つ」は匂いが立ちこめることですが、「匂ふ」だけで充分なようです。つまり「新樹」の季語はそれだけで、若葉に覆われた清新な樹の姿を想像させますから、こまごまと言葉を加えてしまうとかえってポイントがぼやけてしまうのです。
 そう考えてくると「新樹」という季の詞はそれ以上付け加えるものはいらないということになりかねませんが、確かに長い詩歌の歴史に培われた季題にはそれだけの力があります。とはいえ、その認識に立った上で、新しく言葉を見出してゆくのが俳句の醍醐味でしょうね。
 話が逸れました。原句は、昨夜の雨に濡れたあとの新樹のみずみずしさに着目されています。雨のさなかならば「洗はれて雨の新樹の匂ひけり」とすることも出来ますが、おそらく朝の光の中の新樹をお詠みになりたかったのでしょう。では、

《添削》

  雨晴れし朝の新樹の匂ひけり

 〈雨晴れる〉は最近ではあまり使われない言葉かもしれません。雨が上がるのと同じ意味です。「雨晴れて」としないのは、〈……して……となる〉という因果関係による理由説明を避けて、「雨晴れし朝」と一続きの言葉にしたかったためです。
 作者の意に近いように手直ししてみましたが、次に考えていただきたい順番としては、「匂ふ」の語です。雨に濡れた新樹は視覚に訴えかけるもの、「匂ふ」は嗅覚(実際の匂いではなく気配を言ったものだとしても)です。どちらかに焦点をしぼると「新樹」の存在感が増すのではないでしょうか。短い詩型ですから、多くを取りこまず単純な強さで押してゆく工夫を心がけてみて下さい。せっかくの感性がより良く生きるように。


《近況報告》

  「根尾の桜」

 根尾の淡墨桜を見てきなさいよと勧められて、降って湧いた慌しさで出かけることになりました。
 これまで二の足を踏んでいたのは、とにかく不便な場所だと脅かされていたせいもありますが、有名過ぎる桜に対する臍曲りな反感も手伝っていたのです。それが今度ばかりは思い直した――というのも、「いつ何があるか分からないのだから」との一言からでした。いつ何があるか分からないとは、樹齢千五百年と伝えられるこの桜の寿命を懸念する言葉でしたが、わが身の老いをこの言葉に重ねて思わず頷いてしまったのです。仕事に追われているさなかでしたが、徒然草の「命は人を待つものかは」の一節までが頭に鳴り響く始末。
 というわけで早朝東京を発ち、名古屋に着くと激しい風雨。予定を変更して立ち寄った犬山では霰に見舞われて大垣に一泊。「何があるか分からない」を実践したようなものです。
 翌朝は薄曇り。大垣から樽見鉄道の一輌電車で終点まで。一時間余りの車窓から見えたのは畑と果樹園の連なりでした。目を凝らしてみるとどうやら柿の木らしく、そういえば岐阜は柿の特産地だったと思い出して、そうそう駅の売店で地元の干柿を売っていたっけと気がついたけれど後の祭り。
 駅を降りてしばらく根尾川の流れに沿ったあと道を幾曲りかした筈ですが桜はまだ見えてきません。ゆるい勾配になっているなと思った途端、前方が明るくひらけて白くけぶる桜の大樹が眼前にありました。

 淡墨桜1

 昨夜の雨と風でかなり散ったと言われましたが、私には満開のように眺められました。継体天皇お手植えという伝説のこの桜は咲き初めが薄紅、盛りは白、散る頃には淡墨色と聞かされましたけれど粉雪を纏ったとしか思えない樹の姿です。俳句詠みの端くれだというのに、純白の形容に「雪」とは何という表現の貧困か。ともあれ今は旅の気楽さ、陳腐も俗も知らぬこと、花吹雪を手に掬うのに専念しました。

                淡墨桜2

 辛うじて捉えた一片、小ぶりな花びらです。付け根がぽちりと黄褐色。かすかですが、これが全体を眺めるとき淡墨色をなすのでしょうか。数十本の支え木を見え隠れにして、桜はとにかく薄雲を刷いたごとくです。
 樹の裏側にまわってみました。眼に飛び込んできたのは高さ二メートルにも満たない主幹。正面からは支え木と花の枝に遮られて見えなかったものです。大きく数本に分かれて中心部分はおそらく朽ちて空洞になっているのでしょう。乾涸びた苔に覆われた幾つもの醜い瘤。これが桜の正体でした。疎かに花を観ていたことの何という迂闊さ。生き物の性根を見せてもらった、見るべきものを見せてもらったのです。
 帰りの道すがら、川岸に一本の桜の若木が静かな花をつけていました。

 淡墨桜3



(c)masako hara



前へ 次へ 今週の添削教室  HOME