わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第10回 2011/5/20 

《原句》①

  蔦茂る窓の明るさ聖歌隊

 教会か、もしくはミッションスクールなどに見かける小さな礼拝堂だったかもしれません。一読して後者のイメージが浮かんだのは、この句に荘厳さではなく爽やかな初夏の光を感じるせいでしょうか。そういえば以前ヒットした「学生時代」という曲の一節に、〈蔦のからまるチャペルで祈りを捧げた日……〉との歌詞もありました。
 窓枠を縁どって青々と茂る蔦。射し込む陽光までが緑に染まるようです。窓はやや高みにあって室内に光を投げかけているのでしょう。
 ここで下五を歌声だけにとどめてしまったら、この句はムードに終わっていたかもしれません。作者は「聖歌隊」として人の姿を表出しました。合唱のさなかであってもいいし、整列の途中でもいい、楽譜をめくったりする様子を想像しても面白いと思います。「聖歌隊」であることで一句に現実味が生まれました。
 蔦・窓・聖歌隊と、眼に見える具体物が並んでいて材料が多そうですが、「明るさ」の語が全体を繋ぐ役目をしています。
 〈蔦茂る〉や〈青蔦〉の季語は、夏に鬱蒼と葉を茂らせてびっしりと絡みつく印象からか、明るい句が少ないようです。
  青蔦の這うて暗しや軒の裏    松本たかし
  蔦茂り壁の時計の恐ろしや    池内友次郎
  戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ  原子 公平
 いずれも蔦の暗い生命力のようなものを感じさせますが、原句はこれらとは別の視点で青蔦を捉えておいでです
 添削の必要はありません。気持ちのよい作品でした。

 


《原句》②

  残る花つつみてまろし雨上がる

 「残る花」つまり〈残花〉は花季を過ぎてまだ枝にちらほら咲き残っている桜花です。盛りの頃とは異なる淋しい風情があります。似たような状態ですが〈余花〉の方は春を過ぎ初夏になっても咲き余っているものを指す言葉となります。
 間違えやすい〈返り花〉という季語もありますから、ちょっと一言。こちらは冬。いわゆる狂い咲きです。十一月頃の小春日和に時ならぬ花を咲かせます。これは桜に限りません。〈忘れ花〉と風雅に言ったりもしています。
 そこで原句です。花盛りには大勢の眼を愉しませた桜もいまは枝先に数輪を残すばかり。さっきから静かに降る雨が桜を包みこむようにけぶって見えていたけれどそれもようやく上がった、との句意でしょうね。
 「まろし」は、その雨と花との関わりを客観的に描写するところから食み出して、主情的に言いとった言葉のようです。雨が「つつむ」と捉えたことで作者の花に寄せる情感もそこはかとなく伝わりますからこれは省きましょう。

《添削Ⅰ》

  残る花つつみし雨の上がりけり

 名残りの花を惜しむように優しく包んでいた雨も今はもう止んでしまったという、惜しむ気分をもう少し押し出すのなら、一字の差ですけれど、

《添削Ⅱ》

  残る花つつみし雨も上がりけり

となりますが、これは好きずきです。どちらが作者の気持に添うでしょうか。

 


《原句》③

  夏雲と云ふには早き育ち方

 夏の雲の代表は積雲、積乱雲でこれは気象学上の呼び名。私たちには入道雲とか雲の峰と言う方が馴染みがあります。夏の雲という場合はこれに限るわけではありませんが、原句のようにどんどん大きく育っていく形状からすると、入道雲・雲の峰を思い浮かべます。
 変化が早くて大きく動くのがこの雲の印象ですから、「夏雲と云ふには早き」には矛盾がありそうです。作者の意図は、単なる雲にしてはあまりに早く大きくなっていく、ということだったのかもしれませんが、「夏雲」の季語は単純な「雲」とは違ったものです。
 原句は作者の感想・認識を散文的に述べるかたちにとどまっていて、余韻を生じません。むくむく湧き上がる雲の速度に感嘆したのが作句の契機だったでしょうから、その驚きを読む側も共有出来るような表現にしたいのです。もっといきいきと、臨場感をもって。一案ですがたとえば、

《添削》

  指さしてゐる間も育ち雲の峰

 中七の末尾を「育つ」ではなく「育ち」としたところにも眼を留めてみて下さい。ここで一呼吸置くことで、「雲の峰」が強く現れてくると思いませんか。
 下五を「夏の雲」としないのは、これでは漠然として鮮明な像を結べないからです。一句の主題は雲ですから、これを確かな映像で迫るように描きたいと思います。
 ついでにこれと対照的な言葉の働きをしている句をご紹介しましょう。
  夏の雲湧き人形の唇一粒     飯田 龍太
 「人形の唇一粒」という具象に対置させる場合、「雲の峰」では同じように具象的すぎて焦点が散漫になるようです。龍太は「夏の雲」を「形状よりもむしろ色感、碧空と対比したその白一色の感じ」と捉えていました。

 


《原句》④

  はにかむも作戦のうち花あんず

 おやおや、いったいどんな下心があったというのでしょうね。これがもしご自分のことだとしたら、したたかな手練手管ということになってしまいます。まさかそんなわけではないでしょう。きっと小さな女の子。恥ずかしそうな様子があんまり可愛くて蕩けそうになっている人に、お母さんかお祖母様でしょうか「これがテなんですから甘やかさないで下さいね」と眼を細めながらたしなめているという図でしょうか。
 では、その少女(と思いたい)の姿を見えるように描きましょう。単純に手直しをすると、
  幼な子のはにかんでゐる花あんず
  花あんずはにかんでゐる女の子
などとなりますが、はにかんでいる内容までは想像する手がかりがないので少々平板になっています。それならいっそ理由が分からないのを逆手にとって、

《添削》

  幼な子の何にはにかむ花あんず

ではどうでしょう。何を恥ずかしがっているの、という問いをそのまま詠みこんでみましたが。
 杏の花は少女の風情によく似合いますね。

 


《原句》⑤

  降り急ぐアカシアの花人恋し 

 本当のアカシアは日本には自生していないのだそうで、通常私たちがアカシアといっているのは正確にはニセアカシア、もしくはハリエンジュと呼ばれる植物だそうです。
 ともあれアカシアとして親しまれてきたこの花は蝶形の白花を房状につけてよい香りがします。街路樹に使われていることも多く、どこかしらロマンを感じさせる花のようです。
 原句はそんな気分を映しているのかもしれません。「人恋し」は甘いと言われそうな言葉ですが、ご心配なく、江戸時代すでに次のような句があります。
  人恋し灯ともしころをさくらちる
作者は加舎(かや)白雄(しらお)。蕪村より少し遅れて出た人ですが、近代の作品といっても通りそうですね。憂愁を帯びたすぐれた句がいくつもあります。
 さて原句ですが、ここでの「人恋し」はやや取って付けたように置かれています。白雄を真似るわけではありませんが、上五に据えると、この気分が全体にゆきわたって感じられないでしょうか。さらに「降る」よりも「散る」とした方が素直にひびいてくる気がします。「人恋し」に重量がありますから、他の部分はなるべく際立たないように。そうすると、語順を入れ換えて
  人恋しアカシアの花散り急ぎ
となります。上五で切れますから下五を終止形で切らずに「散り急ぎ」と連用形でとどめました。
 この形ですと、上五と以下の部分とは別々の事柄になっています。もう一歩踏み込んでこの二つのフレーズを関係づけてみましょう。

《添削》

  人恋しアカシアの花散ればなほ

 いかがでしょう。「人恋し」が一句の中で浮いてしまわずに収まると思うのですが。




(c)masako hara



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