わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第11回 2011/5/27 

《原句》①

  舟盛りやあごの胸びれ張りつめて

 あごは飛魚のこと。種類の多い魚だそうですが一般的には晩春から夏にかけて伊豆諸島あたりで獲れるものが、くさやの干物などでよく知られているようです。私は伊豆大島に数年間居りましたが旬の時期には捨てるほど獲れたものです。飛魚の名の通り、かなりの高さで海面を滑空しますがこのとき活躍するのが、まるで翼のように大きい胸鰭です。
 原句の舟盛りはいわゆる姿作りだったのでしょう。特徴のある胸鰭を目立つようにぴんと立てて盛られていたと思われます。一句の主人公は「あご」ですから、「舟盛りのあごや」として主体をはっきりさせましょうか。
 次に、生きの良さを彷彿とさせる「胸びれ張りつめて」の部分ですが、「張りつめる」の語でよいかどうかを考えてみましょう。というのは、「張る」と「張りつめる」との言葉の用法には違いがありそうなのです。鰭が「張っている」なら問題はありません。けれど「張りつめる」の場合、〈池に氷が張りつめる〉とか〈全身に神経が張りつめる〉ならば違和感はないのですが、〈鰭が張りつめる〉の用法には無理があるようです。
 作者はまるで生きているような魚の姿を表現したくて、「張る」ではもの足りず、思わず「張りつめる」と言葉を重ねたような気がします。勢いのある表現をなさりたかったのでしょう。では一案ですが、

《添削》

  舟盛りのあごや胸びれ尾びれ張り

としてみました。姿作りなら当然尾鰭も飾られていますし、「胸びれ尾びれ」と重ねることでリズムに弾みがつくと思います。あごの全身も見えてくるのではないでしょうか。

 


《原句》② (6/2、説明文一部訂正いたしました)

  ゴーヤーの粒々ほどの反抗心

 苦瓜とも蔓茘枝(つるれいし)とも呼ばれるゴーヤは、じつに特色のある肌をしています。「粒々」というのはあの疣状の突起のことでしょうね。それを反抗心に見立てたのは意表を突く比喩でした。
 ただしここでは、いったい誰の、どういう状況なのかが語られていません。比喩だけが投げ出されていますので、〈それがどうしたの〉と言われてしまいそうです。
 この「反抗心」の主人公が作者なら「苦瓜の粒ほどにわが反抗心」、ゴーヤそのもののことなら「苦瓜に粒々とあり反抗心」とすれば分かりますが、これでは主体を補って文脈を整えただけにすぎません。詩情がふくらまないのです。
 さらに、「粒々ほどの」とは、ざらついた質感を言いたかったのか、ちっぽけであると言いたいのか少々曖昧ですね。「粒々」というよりは「疣」でしょうし。
 むしろ、考え方を全く別方向に向けて、「反抗心」の主体を第三者にするとどうなるのでしょう。たとえば思春期の子の場合など。

《添削》

  ゴーヤ熟れ子にひそやかな反抗期
  苦瓜のあをあをと子の反抗期


 作品の世界が少し広やかになるようです。これは一つのヒントですから、ご自分の主題で作句するときの手がかりとしてください。
 原句の表記では「ゴーヤー」でしたが、これは音数を合わせるために音を伸ばしたのだとすると避けたい表記です。もしかすると、地域によってはこのように言うのかもしれませんね。一般的には「ゴーヤ」としてよいでしょう。

 


《原句》③

  鎮もれる堂宇の反りや新樹光

 格調のある詠みぶりです。「堂宇」は、堂そのものと、堂の軒と、両方の意味がありますがここでは後者の意で使われています。「堂」はいろいろな建物を指す言葉ですが、句柄から推して大寺院を思い浮かべたくなります。「鎮もれる」という厳かな措辞もその想像に一役買っています。出来ればこの「堂」に性格を与えて、確かな印象にしたいのですが、作者が見たのはどんな建築物だったでしょう。たとえば、大きく範囲を取るなら勅願寺とか門跡寺院とか、七堂伽藍などという言葉もありましたっけ。これは少々大きすぎましたか。もう少し範囲をせばめて金堂、本堂、僧堂。持仏堂というのもありますね。寺院を固有名にするのもよさそうです。
 いずれにしても歴史を感じさせる黒々とした寺院建造物と、若葉の光のコントラストは落ち着いた美しさを醸し出します。
 そこで再び一句全体を見直してみましょう。「堂」に、前述したような性格付けをした場合、「鎮もれる」は蛇足になるかもしれません。さらに「反り」と細部にしぼりこんだことで、かえって視線がちらつくように思われるのです。つまり「鎮もれる」「反り」「新樹光」がばらばらの要素となっていて内容の緊密さを欠いているのではないかという危惧です。作者は「反り」を言いたかったと思いますがこの語はさして効果を発揮してはいないようです。「反り」に焦点を当てて、もう一句作ってみることをお勧めします。
 今回は一例として「堂」を「僧堂」としてみましょうか。

《添削》

  僧堂の深閑として新樹光

 僧堂は僧が坐禅を中心に生活する場所。其処がいまは静けさに包まれて、若葉を通す陽光が射しているばかり、という景になります。「鎮もれる」はやや威圧感のある言葉ですが、作者は静けさを表現したかったと思いますので「深閑と」と言い換えてみました。平仮名でもいいかもしれません。ご参考までに。

 


《原句》④

  祥月や母に供ふるさくらんぼ

 さくらんぼがお好きだったお母様なのでしょう。ちょうどその季節に逝ってしまわれた。明るくてちょっとお茶目なところもあるお人柄が思われます。さくらんぼからの連想です。
 このままで充分に意は伝わりますが、少し工夫してみます。「祥月」は命日の月にあたりますが、命日の当日である方が意図がはっきりするようです。

《添削》

  母の忌の母に供ふるさくらんぼ

 〈母の日の母〉〈父の日の父〉というように、言葉を重ねて使う例をときどき見かけます。安易に使うことは慎みたいのですが、この場合、切なさがそこはかとなく滲むような気がするのですが。ご参考下さい。

 


《原句》⑤

  褌の尻をぶるんと大神輿 

 眼に見えるよう、とはこういう句を言うのでしょう。力感に溢れた作品です。「尻をぶるんと」とは何とまあ大胆にお詠みになったものです。これが女性の作というのですからびっくりしました。神輿を担ぐ壮年の男たちの熱気が伝わります。周囲の歓声まで聞こえるようですね。まさに「大神輿」の貫禄。
 「尻を」の他に「尻の」という形も考えられますが、ここは「を」の助詞で決めた作者に拍手です。「尻を」としたことで、動作がいきいきと出ました。文句なしの作品です。



《point》

 一句の中で季語をどのように扱うかということは、季語をどう考えるかに通じます。季節感をゆたかに伝える季語の働きは本情とか本意という言葉が示すように、詩歌の歴史の中で培われてきた情感を纏っています。それは単なる〈もの〉としての意味だけではなく、作者と読者の間の共感への架け橋です。たった十七字の短い詩型で、こまごま叙述しなくて済むのは季語の持つ広やかな時空に負うところが大きい筈です。そのことをまず念頭に置いて季語の力を信頼して作句したいですね。



(c)masako hara



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