わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第12回 2011/6/3 

《原句》①

  立山を四角に収め田植歌

 三〇〇〇メートル級の山を有する立山連峰は古くから修験道の霊地としても知られています。氷河の遺跡も多いとのことで、変化に富んだ火山の地形は写真で見る限りでも圧倒的な雄大さで迫ってきます。
 その山容を真近に仰ぐ田植えの風景です。季節は夏。従来、田植は六月が多かったのですが昨今は早期栽培の普及などで次第に時期が早まっているとも聞きます。機械化が進んで、もはや田植歌が聞かれるような状景も見られなくなっているかもしれませんが、まだこのような伝統の残っている地域だったのでしょうか。
 立山を背景に水田の広々した空間を対置した大柄な風景句です。点睛ともいうべき趣きを加えたのが下五の「田植歌」でした。
 そこで、まことに惜しいと思われるのが「四角に収め」です。少時、考えてから、ああ「四角」とは田んぼの区画のことかと理解するのですが、一読すっと腑に落ちる表現であってほしいのです。この場合、
  立山を四角に収め田を植うる
ならば、田んぼそのものを言っているので「四角」は無理なく理解できます。つまり山の姿が田の水面に移っているという景です。
 原句ですと、一瞬、山が四角く変形されるのかと誤解しそうです。一句の内容を素直に表現するなら
  立山を水面に映し田植歌
となるでしょうが、作者は「収める」という主情的な把握にこだわりたいかもしれません。では、

《添削》

  立山を水面(みなも)に収め田植歌

としてみました。以上の例を参考にして、ふさわしい言葉をいろいろ考えてみて下さい。
 田植は実際には厳しい作業の筈ですけれど、このように詠まれると、大自然のもとでの健康的な労働の姿として印象されてきます。これは作品が一つの世界を作り上げているからでしょう。少々の手直しはいたしましたけれど、素敵な作品でした。

 


《原句》②

  おばしまの栗鼠と目の合う薬狩

 「薬狩」は、上代五月五日を〈薬の日〉として、山野に出て薬草を採集することをいったものだそうです。この日に採った薬は特に効験があるそうで、もともとは中国から伝わった風習ですとか。
 現代ではまず見かけない習わしでしょうが、漢方の煎じ薬や(もぐさ)などはいまでも利用者があるわけですから、一部ではこの日を中心に行われているかもしれません。
 作者はこの古い風習に擬して、蓬やどくだみなどを摘みながら興じておられたのではないでしょうか。それにしても「薬狩」は古い時代のイメージを引き寄せすぎますね。歳時記の傍題には〈薬草摘(やくそうつみ)〉の言葉もあります。古い文献に〈薬摘む〉とも出ています。
  高尾嶺のいまだ空林薬採り     皆吉爽雨
の例もありますから、これらの言葉の方が現代らしい軽やかさが出るかと思います。
 原句は、たまたま栗鼠が出てきたのをすかさず取り入れたことで意外性が生まれ、それがリアリティをもたらしています。さてそこで一考したいのが上五の「おばしま」。手摺(てすり)欄干(らんかん)のことですが、ここでの場所の説明は無駄のようです。薬狩さなかに栗鼠と遭遇! したのが一句の面白さなのですから、これは外しておきたいところ。次のようにしてみてはいかがでしょう。


《添削》

  現はれし栗鼠と目の合ふ薬摘み
  出てきたる栗鼠と目の合ふ薬摘み


などと。ご参考下さい。
 ここまで書いて読み返しましたら、上五をこのようにかるくしておけば、時代がかった「薬狩」も嫌味なく収まるような気がしてきました。この部分は作者の好みにお任せしましょう。

 


《原句》③

  萬緑のしずくしたたる棚田かな


 傾斜地に層をなして作られた棚田は、国土の狭さの象徴のようにも思えるのですが、その労働の大変さのそれはそれとして、実に美しい眺めです。
 いま、この棚田は見渡すかぎりの緑に取りまかれています。作者はその印象を、緑したたるばかりと感嘆して捉えたのでょう。
 〈万緑〉の季語を定着させたのは中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」であるというのが定説で、漢詩の「万緑叢中紅一点」から取った言葉だといいます。歳時記解説の大方が、辺り一面の緑、そして夏の大地の生命力を強調しています。
 そうすると、原句の「しずく」(歴史的仮名遣いでは「しづく」)は総体的な〈万緑〉の語に対して部分的すぎる気がしないでしょうか。緑したたる、ならばよく分かります。では、

《添削》

  万緑のしたたるばかり棚田かな

もしくは

  満目の緑したたる棚田かな

となります。これで出来ていると思いますが、次に考えてみたいのは「したたる」という主観的、観念的な表現です。いくらか常套的な感もありますし。言葉を飾らずに簡明にするのなら
  満目の緑のなかの棚田かな
とする方法もありますが、作者としては表現に工夫した部分を省かれてしまって、もの足りないかもしれません。一つの方向性としてご参考下さい。
 〈萬緑〉の「萬」は旧字、「万」は新字です。現在では出版物のほとんどが新字使用ですが、旧字や本字に拘る方もいらっしゃいます。使う場合は混在させず統一して使ってください。

 


《原句》④

  次女十四身に袋掛けしたるごと

 本来の「袋掛」は、まだ若い果実を病虫害や風害から守るために袋をかぶせること。桃・梨・林檎・葡萄などに施します。見た眼よりはずっと厳しい作業だそうです。歳時記の例句に
  梨畑の女ばかりの袋掛     長谷川浪々子
とあるように、女性や子供が働くことも多いといいますが何といっても延延と続く単純作業。上を向いて手を伸ばして、という姿勢の連続はさぞ疲れるものだろうと思います。〈袋掛〉はそういう生活感を背後に負った季語でもあります。
 さてそこで原句に戻りましょう。ここでの「袋掛け」は比喩に使われていますがその是非はさておき、内容としては思春期の少女の、(かたくな)さといいますか外部に対して容易に心を開かない有様(傷つきやすさの裏返しですね)を言ったものでしょうか。それとも衣服の流行があって、膨らんだような恰好に見えるというわけでしょうか。
 どちらにしても〈袋掛〉の季語は形状を喩えるためだけに使われています。前回《point》でも触れましたが、詩語として豊かな連想を広げる言葉を、狭い意味だけで使うのは勿体ないですね。まずは詠もうとする季語への理解を深めていっていただきたいと思っています。
 もう一つ工夫したいのは上五です。俳句の短さではあれこれ言い尽くすのは無理です。自分にとっての間柄を説明するのではなく、読み手が普遍的に受けとれる言葉を考えていくべきなのです。つまりここでは〈娘〉であればいいですし、もっと進んで単に〈少女〉ということだけで構わないかもしれません。そうなると年齢も不要になってくるでしょう。言葉を刈り込んでいくことが大事です。
 ちょっと整理しましょう。まず第一に句意(句の内容です)が確かに伝わるようにすること。季語が本来持っている意味や味わいを一句に生かすこと。無駄な言葉がないか見極めて省いていくこと。これらを念頭に置いてもう一度、作り直してみることをお勧めします。
 先程、〈袋掛〉の季語の生活感ということを申しましたが、以前長野の林檎園で袋掛を見たことがあります。その折の句をご参考までに書いてみます。拙い出来ですが、

  袋掛終へてみづみづしき夜空

 


《原句》⑤

  サイダーのしゅわっと浜の夏祭り 

 勢いのあるいい作品ですね。サイダーの栓を抜いた途端に弾ける泡の音。砂浜には出店も沢山並んでいるのでしょう。「浜の夏祭」であることで、真っ青に広がる海と空が眼前します。
 同じ作者に、
  ペディキュアの足並揃う浜神輿
もありました。この現代的風俗への着目も面白いですが、断然、掲出句に軍配が上がります。無駄な言葉が一つもありません。この調子で作句していって下さい。




(c)masako hara



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