わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第13回 2011/6/10 

《原句》①

  枇杷の実やあかりひとつのあたたかさ

 これは枇杷を小さな灯のようにほのぼのと感じている、と受け取りましたがどうでしょう。穏やかな句柄です。
 別の解釈では「あかりひとつのあたたかさ」はたとえば室内の状景であって、「枇杷の実」は取り合わせとも考えられるのですが、それは「や」という大きな切れ字が入っているためです。ただし、それにしては中七・下五のフレーズからは具体的な状景が浮かびませんから、最初の解釈の通りとして、手直しをしてみましょう。
 まず、「あたたかさ」は心持を言っているとは思うのですが、〈暖か〉という春の季語がありますから、単純に句を見ると〈枇杷〉(夏)との季重なりになります。言葉が効果的に働いていれば季重なりがすべて悪いわけではありませんけれど、この句の場合「あたたかさ」は作者自身の感想です。これは言わずに読み手に感じ取ってもらうべきところ。それが作品の余韻や余情につながります。
 枇杷は何処にあるのでしょうね。野外に実っているのではなさそうです。すると皿の上か、てのひらか。「あかり」のように感じているのなら器ではなく、掌の方が体感的でふさわしいようです。そうなると、

《添削》

  枇杷ひとつ(とも)るごとくに(たなごころ)
  枇杷()せて灯るごとくに掌


としてみました。「灯るごとくに」は「あかりのやうに」でもよいのですが、枇杷・明り・掌と、名詞ばかりになるよりは「灯る」を使うと句に動きが出るかと思います。「掌」は平仮名にするのも柔か味が出ていいかもしれません。
 もう一つ、「枇杷」はそれだけで実を指しますから「枇杷の実」まで言うよりは、その分の字数を使ってより良い表現を探しましょう。今回は上五音にするための工夫だったのでしょうね。

 


《原句》②

  絶妙な距離とる(つま)のサングラス

 「絶妙な距離」とははたしていかなる場面だったか想像を逞しくさせられます。それはともかく、ここでは説明調の表現が気になります。「とる」の部分です。これを外してみましょう。簡単に直すなら、

《添削》

  絶妙な距離や(おっと)のサングラス

 となりますけれど、「絶妙」は賛否分かれる措辞でしょうね。川柳的な面白さに傾きすぎるようです。出来れば、具体性のある景を示して、そこから感じられるものを待ちたいのです。ここで言われている「距離」は実際の距離ではなく、気持の上での距離感でしょうから、なおさら具体的な状況が見えてくるといいのですが。
 この状況について、推測の手掛かりがないので、作者の意図とは別になりますが、ご参考までに同じ素材で詠んでみました。
  ふと遠き距離や夫のサングラス
  使はれぬままに夫のサングラス
などですが、苦肉の策です。ことに前句、本当は「ふと」は禁じ手に近いものです。俳句は或る日或る時「ふと」感じたことを詠むものですから、本来は不要の言葉です。どうしても必要な場合だけと、申し添えておきます。
 原句にこまごまと注文をつけましたが、微妙な心理に焦点をあてて意欲的でした。

 


《原句》③

  節電のトンネル長し山若葉

 このところ、あちこちで消費電力節約が奨励されています。掲出句はその事象に着目なさいました。時事を詠み込む場合、当時の出来事が過ぎ去ってのちも作品としての共感が得られるかどうかが大事な点です。つまり普遍性ということです。時間が経過してみないと評価は難しいものですが、作る立場としてはこのことを念頭に置いておきたいですね。
 それでは原句に戻って、「節電のトンネル」の表現ですが、意味は分かるにしても用法に少々違和感を覚えるのです。日常会話ではこんなふうに使われたりするでしょうが、書き言葉として改めて見直すと不正確な用法と思われます。細かい点に拘るようですけれど、これはトンネルの照明が節電されているわけで、トンネル自体を節電というのは飛躍した言葉遣いのようで気になるのです。「節電しているトンネル」、もしくは「節電中のトンネル」ならば無理がありません。
 そしてこの「節電」を一句の中心に据えるのなら、「長し」を内容に盛り込まない方が焦点がはっきりします。
 新緑の季節。山中を貫通するトンネルは照明を暗く落としているけれど、一山を覆う若葉は対照的に明るい陽光に照り映えている、ということで充分でしょう。

《添削》

  山若葉節電中のトンネルに

 「山若葉」の季語の選択はよかったですね。これが単なる〈新緑〉や〈万緑〉だったら、トンネルのある場所が曖昧になります。「()若葉」のおかげで風景に現実味が出ました。

 


《原句》④

  潮騒に縄文人のゐて薄暑

 潮の寄せる響きの中で、遠い縄文時代の人類に想像をめぐらす、それは打ち返す波音が原初の音のように感じられたからかもしれません。魅力的な幻想を題材になさいました。
 縄文人といえば山野での狩猟のほかに、海辺では貝や魚を獲ることが生活の基盤だったといいます。貝塚など、その証拠が各地に見られます。作者の想像に容易に共感出来るのは、これらのことが根にあるからです。
 さてそこで再び原句を眺めてみましょう。「潮騒」は音です。「ゐて」は空間的に存在するという把握です。言葉の意味する質がまったく違うせいで、この「ゐて」は一句中に溶け込まないように思うのですが。ましてここでは想像を述べているわけですから、それに対して具象的・現実的な状態を示す「ゐて」はそぐわないようです。〈現われる〉のなら分かります。
 もう一つの問題は、句末に置かれた「薄暑」ですが、取って付けたような印象が拭えません。むしろこの部分が無い方が主題がはっきりするくらいです。「潮騒に縄文人の現はるる」で言い尽くされているのですが、そうはいっても主題を支える季語の広やかさは是非ほしい。そうなると「潮騒」と夏とを含んだ言葉、〈夏の潮〉などはどうでしょう。

《添削》

  縄文人の現はるるかに夏の潮

 上五字余りになりますが、このようにしてみました。作者は「潮騒」の語に惹かれたかもしれませんが、大らかな想像力を受けとめる大きな季語〈夏の潮〉もなかなか良さそうですよ。

 


《原句》⑤

  草萌えの大方は名の知れぬもの 

 言われてみれば、なるほどそうだなあと実感させられます。この作者は普通私たちが気にも止めなかったことを、改めて気付かせてくれます。
 植物学者の故牧野富太郎博士でしたか、「雑草という草はない」と仰有ったとか。でも博士には申し訳ないことながら、植物学に疎い身にとっては道端や野原の草というのは掲出句のように眺められてしまいます。
 さて、ここで惜しかったのはせっかくの発見が散文的な説明になっている点です。これは上五で切れを入れましょう。

《添削》

  草萌えや大方は名の知れぬもの

 「草萌えや」と大きく一呼吸おいて、早春の息吹を感じつつ「大方は名の知れぬもの」と一転します。この転換がそこはかとないユーモアを醸しだしてはいないでしょうか。




(c)masako hara




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