わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第16回 2011/7/1 


《原句》①

  揺らぎ立つメトロノームや牡丹果つ

 メトロノームの振り子の動きに着目した作品。面白い素材です。ここでの「揺らぎ立つ」は振り子の揺れが真ん中で止まったことを言うのか、それとも振り子が揺れている状態のメトロノーム本体を言いたかったのかどちらでしょう。前者ならば「揺れ止みし」、後者ならば、「揺れつづく」とした方が意図が正確に伝わるかと思います。
 「揺らぐ」と「揺れる」の違いに眼をとめてみて下さい。微妙な差異を感じませんか。「揺らぐ」は予期しない揺れ、つまり意図しないのに起きる動きをより強く思わせます。メトロノームは正確に拍を打たせるための器械で、いわば自発的な動きをしているのですから「揺らぐ」では不適当なようです。
 次に、この場面を思い描いてみますと、メトロノームは室内ですが「牡丹果つ」からは外の景色をイメージします。いっぺんに両方が眼に入っては来ませんから把握の統一感に欠けてしまいます。一歩譲って、室内に活けられている牡丹としてみても、「果つ」まで言うことで句の焦点が散漫になるのではないでしょうか。一句の中心になるのはメトロノームの揺れです。下五の季語はそれを生かすような働きを持つ言葉を探しましょう。
 作者は「牡丹」という存在感のある植物を選びました。さらに「果つ」と加えた意図を推察しますと、単に豪華で美しいというだけではない或る重さ、翳りのある印象を持たせたかったのかもしれません。では一案ですが、〈青葉の夜〉などどうでしょう。
 夜の闇が、緑を深めた樹木を覆っています。そんな濃密な夜の気配が室内にまで立ちこめている、として、

《添削》

  
メトロノーム拍を打ちをり青葉の夜
  メトロノームの揺れつづきをり青葉の夜


 作者の意図が、振り子の止んだことにあるのでしたら、
  揺れ止みしメトロノームや青葉の夜
という形が考えられます。




《原句》②

  夏日影負うて吊橋渡りけり

 「夏日影」は夏の日の光をいう言葉で、日陰とは別のものとして使われます。〈月影〉の語が月の光を指すのと同じことです。
 灼けつくような夏の日ざしは、ものの輪郭をくっきりと浮かび上がらせます。光と影の対比が強烈に眼を射る季節。「吊橋」という不安定な場に足を踏み入れたとき一瞬よぎった不安な感覚が一句の根抵にあるようです。その感覚を前面に出す方法もあったでしょうが、作者は感覚の鋭い針をいったん沈めて、淡々と叙する方を選びました。そのためにこの作品は写実的描写の確かさを保ちつつ、そこはかとない危うさをも同時に印象づける構造になっています。一見して何でもない姿をしていますけれど、読み手のそれぞれが感じとる容量が大きい、そういう句だと思います。一見何でもない姿の句といいましたがその裏にひそめた感覚を支える言葉の仕掛けが無い訳ではありません。
 ここでは、「夏の日」ではなく(同じ意味ですが)「夏日影」としたこと、また「負うて」の語の選択などが、無意識であったにせよ工夫した部分に当たります。季節が夏であるのも成功の一因かもしれません。
 試みにそれぞれの季で見てみましょうか。春日影・夏日影・秋日影・冬日影、いずれも季語になっています。このうち、「春日影」「秋日影」ではどうということもなさそうです。実感のある像が結ばれてこないのです。中では「冬日影」が唯一、「夏日影」に拮抗出来そうですが、これだと人物にもう少し生活的な要素を加えたくなります。農夫とか猟師とかが似合いそうです。
 それに比べ「夏日影」は抽象性が強い。この場合、人物としての性格(役割)を捨象して、単なる〈私=作者〉であるというだけで充分です。読み手はそこに自分を投影して感じられてくるのではないでしょうか。
 いい作品でした。




《原句》③

  リラ冷えの明るき夜になりにけり

 なんて気持ちのよい句でしょう。
 リラはライラック、紫はしどいとも呼ばれます。淡紫色、淡紅色、白色などがあってヨーロッパ原産。札幌の大通公園にはみごとな並木があるそうです。市の花に指定されて五月下旬には「ライラックまつり」が開催されるのだとか。北海道には明治の中頃に入ったのだそうで、西欧的な雰囲気でイメージされる植物のようです。
 歳時記には晩春に分類されていますが、「リラ冷え」の季節感は北海道の気候風土ならではという気がします。
 この句からイメージするリラの花は是非とも淡紫であってほしいと私などは思うのですが、これは個人的な好み。もちろん読者それぞれ好みの花色を思い浮かべてください、とお願いしたいような気分になります。
 何といっても「明るき夜」の措辞が素晴らしい。ひんやりとした夜気の中、リラの香りに包まれていらしたのでしょう。この空気の感触、なんとも言えずいいですね。清潔な抒情があります。
 作者、目を瞠るばかりの上達ぶりです。付け加えることはありません。素敵な作品でした。




《原句》④

  化粧せぬ一日に倦んで梅雨深む


 化粧をしないで一日を過ごすのは、素顔ですがすがしくという場合もあるでしょうし、物憂く屈託した気持ちのためという場合もあるでしょう。それを決定するのが季語ということになります。心情を季語に委ねる、つまり季語に代弁してもらう訳です。
 梅雨時のじっとりと重い大気。一向に止む様子も見えぬまま幾日過ぎたことだろう、そんな鬱鬱とした気分が一句を支配しています。心理的な陰翳を感じさせる作品。
 ここでの「倦んで」は必要だったでしょうか。これは季語に語ってもらう部分です。自分の感情を述べてしまわず、季語を信頼して怺えておきましょう。言わずにおくことで余情が生まれます。

《添削》

  化粧せぬ一日(いちにち)梅雨の深みけり

 「一日(ひとひ)」を「いちにち」と読んで音数を合わせました。「ひとひ」とするのなら、
  化粧せぬ一日や梅雨の深みたる
となりますが、この場合は「や」の切れ字がありますから下五には「けり」「たり」の切れ字を使わず、連体形で止めておきました。




《原句》⑤

  同じ名の着信履歴梅雨深む 

 携帯電話、いわゆるケータイの着信記録です。現代的な句材でお詠みになりました。古典的情緒の言葉ばかりでなく、詩語として生きるかどうかと思われるようなものにも挑戦していく意欲は大事ですね。時には破綻玉砕の憂き目に遭ったとしても言葉の幅を広げていってほしいと思っています。
 さて原句、ケータイを開くとずらりと同じ人からの着信が続いている。日常の一些事です。そして今は梅雨の真っ最中。
 このことに格別深い意味がある訳ではありません。けれど、そういう出来事が状景として読み手にありありと感じ取れるとき、その作品は成功していると言えるのではないでしょうか。日常生活のリアルな表出です。「梅雨深む」の季語が現実味を支えて、成功しています。
 このままで充分です。


※今回は手直しの必要のない、いい作品が揃いました。
 共通しているのは、説明の部分が少ないことと、季語が句の内容を生かし
 ているという二点です。
 どうぞこの調子で、梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばすような句を沢山お詠み下
 さい。




(c)masako hara







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