わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第18回 2011/7/15 


《原句》①

  海霧襖隣家の赤子泣き止まず

 単なる〈霧〉ならば秋の季語ですが、〈海霧〉は夏の季語に分類されます。この〈海霧〉は〈じり〉と読みますが、おそらくは海辺の生活から生まれた特殊な呼びかたかと思います。辞書を引きますと「北海道地方に夏季発生する濃い海霧」とありますから、この地方特有の言葉だったかもしれません。もっとも、海での濃霧は北海道だけに限らないものです。
 原句の背景には漁村や港町を想像しますが、近隣の赤子の声が聞こえてくるという生活感にふさわしいのは漁村でしょうか。そう思ってみると、もの淋しさが深まるようです。
 〈霧襖(きりぶすま)〉や〈霧の(まがき)〉の語は濃く立ちこめた霧によって視界が効かない状態を形容しますが、作者は「海霧」にこれを敷衍して使用しています。海上からの霧が浜辺の家々までも白く閉ざしている中で、赤子の声だけが強く、あるいはか細く続いている。象徴性を帯びて感じられる作品です。
 「海霧襖」は硬い韻きの語ですが、中七以下のフレーズには平明な言葉の方が似合いそうです。たとえば「海霧の中」「海霧深く」など。


《添削Ⅰ》

  
海霧深く隣家に赤子泣き止まず

 下五が動詞終止形で切れていますから上五は切れを入れず「深く」として、なだらかに下に続けています。
 中七は原句では「隣家の」となっていて、これで構いませんが、添削例のように助詞を「に」とすると、〈隣家では〉つまり〈隣家においては〉の意が強まります。これは好きな方を選んで下さい。
 もう一つの考え方として、作品中の「赤子」をどのように捉えるかということがあります。実際にはお隣の赤ちゃんであったでしょうが、それは作句の契機であって、表現の中心に据えたいのは海霧と泣き続ける赤子との対照ではないかという点です。先に、この句に象徴性を感じると言いましたが、その方向に近づけるためには、どうでもいい事実の部分を消してはどうかと提案したいのです。参考としてご覧下さい。

《添削Ⅱ》

  泣き止まぬ赤子に海の霧深し




《原句》②

  麦わら帽くすぐったさうに笑ひをり


 最近は帽子の種類も材質も多くなって、麦藁帽子を以前ほど見かけなくなりました。海辺で仕事をする人や農作業の人達には通気性が良くて便利なものでしたし、小さい子供などよく被っていたのですけれど。
 この句ではさて、どういう年齢、性別の人を思い浮かべたらよいでしょう。一つの場面を切り取ってはいるのですが、状況を想像する手がかりが少な過ぎるようです。
 「くすぐったさうに笑ふ」様子からは、若い女性、少女くらいの年齢を思いますけれど、状況次第では男性だって、お年寄りだって、こういうことはありますね。たとえば農作業の休憩時間、仲間に恋人との仲をひやかされた若い男性、などという場面も考えられます。
 ちょっと小説風な例をあげましたけれど、作者はおそらく、はにかんでいる少女の様子を描きたかったのでしょう。では〈誰が〉ということを加えて次のように、

《添削》

  くすぐつたく笑ふ少女の麦わら帽

 本当ならば、〈誰が〉の部分を入れずに、「麦わら帽」が笑っている、としておきたいのですが、この句の場合はそれだと想像の及ばない空白が大きいのです。そこで「くすぐつたさうに笑ふ」という面白さの方を生かして「少女」を加えてみました。
 歴史的仮名遣い表記では促音「っ」を大きく「つ」と書くのが通例のようです。




《原句》③

  海の音夕暮の音して葭簀立て

 「葭簀」はよく海の家や売店などに立てかけてあるのを見かけます。葭を編んで作った日除けです。
 暑かった一日がようやく暮れる頃、葭簀にうすうすと射す夕影に、作者もゆとりを取り戻しているようです。気持ちに余裕がなければ音を感じることはなかなか出来ません。
 そこで、「海の音」ですが、やや曖昧な表現ですから、ここははっきり「波の音」と限定することで読者にも明確な印象が刻まれると思います。次に「夕暮の音」。これは更に曖昧です。多分に心象的な言葉になっています。「夕暮」からは光や色を感じることは出来ますが、音に転換するのは無理なようです。
 もう一つの問題は「葭簀立て」の「立て」です。これですと、夕方になってから葭簀を立てまわしていることになってしまいます。用途が用途ですから、日が落ちてから準備することはないでしょう。葭簀はすでにそこに立てかけてある筈です。
 これらの問題点を整理すると、

《添削》

  波音の日暮となりし葭簀かな
 
 となりますがいかがでしょう。作者の本来の意図を踏みはずしてはいないと思うのですが。
 いくつか手直しはいたしましたが、感覚のすぐれた作品でした。




《原句》④

  花一輪まっさかさまに金魚鉢


 まあ、びっくりしました。まるで一輪の花が金魚鉢に身投げをしたようですね。いえいえ、冗談です。
 これはどういう状況でしょうか。いくつか矛盾がありそうです。まず、「金魚鉢」といえば室内にあるもの。そこに花(何の花でしょう)がぽとりと落ちたり、花びらが散ったりということは理解しにくい。金魚鉢の傍らに活けられている花とするには言葉が足りません。
 中七の「まっさかさま」は、作者が一番使いたい言葉だったかもしれません。けれどこれはある程度の距離がないと無理な表現ではないでしょうか。野外の空間だったら別ですけれど。室内の場景とするなら、せいぜい〈裏返り浮く〉程度です。
 となると、さてどうしましょう。作者の興を削ぐようですが、考え方を転換して、もう少し落ち着いた景にしてみませんか。「花」は金魚鉢に落ちてくるのではなくて、金魚鉢に活けられている、もしくは一時入れられているという光景にしてみては。たとえば、
  花一枝挿してありけり金魚鉢
のように。
 原句で、「花」を特定していないのは「金魚鉢」との季重なりに配慮したのかもしれません。ただこういう場合、花の名を出さないのはむしろ思わせぶりのように感じるのです。意外なところに花が挿されている面白味が一句の核になりますから、季重なりになっても花を特定しましょう。何であっても、それなりの面白さになるようです。大人しいところで〈風知草〉〈卯の花〉、賑やかにするなら〈ダリア〉などでも。

《添削Ⅰ》

  卯の花の挿してありけり金魚鉢

 もう一句、少し面白過ぎてしまうかもしれませんが、遊びの句として次のようにすることも出来ます。乱用は慎みたいのですが、

《添削Ⅱ》

  金魚草挿してありたる金魚鉢

 こちらは「ありけり」と正攻法の切れを使わず、「金魚鉢」に繋がっていく語法で「ありたる」としました。




《原句》⑤

  ひぐらしの来て鳴きし木や早朝に 

 六月ごろから蟬の声が聞かれるようになります。夏の盛りには油蟬やみんみん蟬、熊蟬。秋口になると法師蟬、(ひぐらし)というようにその時期は少しずつずれます。
 歳時記の分類では、蜩は秋。夕暮は特によく鳴くとの解説もありますが、私は芭蕉の「奥の細道」の道程を辿ったとき、市振の宿で早朝、蜩のうるさいほど鳴く声を聞いたことがあります。
 原句も、朝の蜩です。蜩の別名はかなかなですが、成程はっきりカナカナと聞こえます。姿は見えずとも作者はその声を木もろとも強く印象されたのでしょう。
 「来て鳴きし」が説明的になっています。下五の「早朝に」も取って付けたようで収まりが悪いようです。語順を入れかえて、説明の部分を省いてみましょう。

《添削》

  朝すでにひぐらしの木となってゐし



(c)masako hara







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