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第19回 2011/7/22 あ | |||
《原句》① 〈海のパイナップル〉などとも言われる海鞘は浅海の岩や海藻に付着して生活しますが、養殖もされているそうです。外側の殻を剥いて中の肉質部分を食べます。独特の磯の香りを好む人には珍重されて刺身や酢の物として供されます。 原句からは産地の作業場を想像します。砂浜から海が一望出来るような場所ではないでしょうか。砂地に自生する浜昼顔が辺り一面に咲いている、そんな海浜の風景が広がります。 このままでも充分に状景が描けていますが、下五の「尻向けて」についてもう一歩突っ込んで考えてみましょう。「尻向けて」の表現は、単に作者の位置を示すというより、花などには目もくれずに作業を続けているという意が強くひびきます。この場合、一句の中に理屈が入り込んできて作品の情趣が 海鞘捌く浜昼顔を となりますが、次に考えてみたいのは、事実と表現との関係です。 浜昼顔が作者の後ろの位置にある、というのが実際の状況だったようです。ただ、作品として見たときに、ひたすら海鞘を捌いている行為に対置される浜昼顔はどんな状態にあるのがふさわしいか、です。 表現をいろいろ動かしてみましょう。まずは正反対の言葉から、〈正面に〉〈真向かいに〉などがありますけれど、これらは、海・沖・水平線のように大きな景に対してなら似付かわしい。せいぜい〈顔向けて〉くらいが許容範囲でしょうか。となると、 海鞘捌く浜昼顔に顔向けて ところが、これでは浜昼顔に注意が向いてしまって、一心に海鞘を捌く動作がどこかへいってしまいます。浜昼顔は傍らにあるだけでいいのです。では、一例としてですが、 《添削Ⅰ》 海鞘捌く浜昼顔を足元に としてみました。作者の意図とは違うかもしれませんが、ご参考まで。 こまごま述べましたが、原句は海浜の生活をしっかりした輪郭で描いた素敵な作品です。 〈海鞘〉〈浜昼顔〉、季重なりですが、これは成功しています。 ![]() 《原句》② 雲の峰校歌こだまし球はずむ 夏の高校野球ですね。この句は何と言っても「雲の峰」がお手柄でした。夏空を背景に湧き上がる白雲。大きな景になりました。 「校歌こだまし」と「球はずむ」は、どちらか一つに絞りましょう。この二つの事柄は同時に起こっている訳ではありません。あれもこれもと欲ばらずに、眼前の一瞬の景だけを描くことが大事です。どちらを選びましょうか。「球はずむ」はやや曖昧なようです。「校歌」の方が捉え方が確かです。 とはいえ、「校歌」だけではどういう場合かは分かりませんから、言葉を補って次のようにしてはどうでしょう。 《添削》 雲の峰球児の校歌こだまして 下五を「こだませり」と終止形の切れで収めてもいけない訳ではありませんが、内容を生かす語調にしたいものです。ことに上五は大きく強い季語で、取り合わせがはっきりしていますから句末は「……して」と穏やかにとどめました。これは作り手それぞれの持っている言語感覚とも関係するかもしれません。そういうことも頭の隅に置きながら作句の参考としていって下さい。 ![]() 《原句》③ 炎昼の音なく回る警報機 魅力的な作品です。ぎらぎらと灼けつくような昼間、ふと眼にした警報機の存在が不安感を醸しだしています。 警報機は緊急時に音を響かせて注意を喚起したり、危険地域に置かれて光線を発したりして危険を知らせます。 一読、この「警報機」は作動していない方が、「炎昼」との対比によって、日常の中の不安感や異様さが出てくるのではないかという気がしました。普段の生活に隠されている危うさといえばよいでしょうか。 ところが再読して、「音なく回る」の「音なく」の語が効いているのではないかと思い直しました。これが、大きな音響を発しているのであれば、これでもかと言わんばかりの作品になってしまったでしょう。原句の「警報機」は建築現場などで立入禁止を知らせるようなものだったかもしれません。棒状の先端にグルグル回る拳大の器械が取り付けられているのを見たことがあります。なるほど音なく回っています。作者はそれを眼にした途端、日盛りの熱気が迫るような感触を覚えたのではないでしょうか。 具象的な把握の背後に鋭敏な感覚をひそめた、いい作品だと思います。 「警報機」の表記ですが、辞書では単純で小規模なものには「器」の文字を当てていますから、「警報器」としておきましょう。直すのはそれだけです。 《添削》 炎昼の音なく回る警報器 ![]() 《原句》④ 天を突く間欠泉や日の盛り 面白い取り合わせによる作句です。「間欠泉」は「間歇泉」とも書きますが、ご存じのように一定の時間をおいて周期的に熱湯や水蒸気を噴出する温泉のことです。 熱海だったか、伊豆方面の温泉地の駅前にこれがあって、かなりの高さで吹き上がっていました。まさにこの句の状景です。 さてそこで、「天を突く」という表現ですが、これは見たものを百パーセント、いえ、それ以上に増幅した表現に思われます。俳句は短かい詩型です。言い尽くすことには限界があります。むしろ、多くを言わずに読み手に想像させる容量を大きくすることが俳句の要点といえるでしょう。 「天を突く」の比喩表現はかなり大げさなものです。常套句でもあります。つい使ってしまい易いのですが、ここは一歩退いて、客観的な表現を探しましょう。十のものを十言おうとするのではなく、最初の感動が静まるのを待って、何割か控えた表現にしてみる、そうすることで作品には余韻が生まれます。読者が想像する部分にも繋がっていきます。 原句の上五を少し抑えた言葉に置き換えてみましょうか。 《添削》 噴き上がる間欠泉や日の盛り 作者としては、当たり前すぎると感じるかも知れませんね。これを取り敢えずの参考として、他にもいろいろ工夫してみて下さい。 ただし、言いすぎる表現よりは当たり前の方が飽きがこないものです。 たまたま歳時記の例句に、同一の句材で詠まれているのがありました。ご紹介しておきます。 日盛りの間歇泉の一つ噴く 高野素十 写生の名手と言われた人の作品です。 この「一つ」の語が一句に及ぼしている効果をよく味わいたいと思います。 ![]() 《原句》⑤ 羊腸のみどり滴る旧街道 瀧廉太郎作曲の唱歌〈箱根八里〉は「箱根の山は天下の嶮」で始まり「羊腸の小径は苔滑らか」と続きます。年配の方には懐かしい歌でしょう。原句から思わずこの歌詞の景色が彷彿としました。 「羊腸」は曲がりくねっていること、九十九折のことですから、先述の歌詞でも分かるように〈道〉を修飾します。「羊腸の」の助詞〈の〉は「切れて切れない〈の〉」ともいわれて、ここで軽く一呼吸置く、一種の切れの働きを持つとされますが、それにしても原句の語順ですと、間が離れすぎて「みどり」へ直接掛かるようになりますから、位置を入れ換えましょう。全体に詰まった印象もありますし。 《添削Ⅰ》 羊腸の旧道みどり滴れり 《添削Ⅱ》 羊腸の旧街道や緑さす とする方法もあります。 こちらの季語からは日の光も同時に感じられるようです。 |
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(c)masako hara |
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