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第21回 2011/8/5 あ | |||
《原句》① 髪あげて浴衣に恃む恋すてふ 百人一首に〈恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見〉があります。歌の意味は、〈恋しているという私の噂がもう立ってしまった。人に知られないようにひそかに思いはじめていたのに〉となります。 作者は恋の情感をこの歌に絡めて表現しようとなさったのかもしれません。「恋すてふ」は〈恋しているという〉の意ですが、句に嵌めこんでみると、少々尻切れトンボで思わせぶりでもあるようです。古歌の言い回しを使ってみたいという魅力的な誘惑を避けて、率直に表現しましょう。その方が上五中七のフレーズも生きてきます。 「髪あげて浴衣に恃む」なんて、なかなかのものです。精一杯装って恋の成就を願うひたむきさも窺えるというものです。 さてそこで、この恋の主人公は誰かということですが先程の百人一首の言葉の続き具合と原句の用い方とは別のものです。「てふ」は〈……という〉の意ですから、作者は第三者的に別の人物の恋を言っていることになります。その意味で表すのなら、 《添削Ⅰ》 髪あげて浴衣に恃む恋らしき となりますし、または、 《添削Ⅱ》 髪あげて浴衣に恃む恋もあり としますと、自分のことだけれどもいくらかぼかして人のことのように言い取っているという感じが出てきます。 Ⅱはまだしもですが、Ⅰのように完全に第三者としてしまうと、人物像がはっきりしません。 この句を作者自身のこととするのなら、 《添削Ⅲ》 髪あげて浴衣に恃む恋なりき としてみますが、いかがですか。これに限らず自分のことを詠む場合は真率な感情が受け取れて、共感も得られるものだと思います。 ![]() 《原句》② 苦瓜のすくすく育つ秋津島 「秋津島」は秋津洲または蜻蛉洲とも書いて、もともとは大和国を指しましたが、のち日本国の異称です。古く、古事記に出てくる言葉ですが、古名を用いる場合そこには何らかの意図が働いている筈です。歴史的な連想作用を呼びこみたいというのがそれでしょうか。 東日本大震災直後の原発事故の影響で、この夏は節電のため、冷房代わりの緑のカーテンと称して植物を植えることが流行りました。日本という国を改めて考える人も多くなりました。作者もその一人だったようです。 これらの事情が作品の裏にこめられているとして、表現がその意図に叶っているかどうかを見ていきましょう。 原句の表現からすると、創生期から連綿と続いてきたこの国に苦瓜の緑がゆたかに育っているという、健やかな句になります。 ところが作者の言いたいのはそうではないらしい。となると問題は「すくすく育つ」という脳天気(失礼。)な措辞にあります。たしかに、苦瓜は逞しく蔓を伸ばし葉を茂らせます。人間の側の都合とは無関係ですが、一方、人間側に眼を転じて捉えれば苦瓜は日陰を作り温度を下げてくれるためのもの(もちろん実も収穫できますが)。そちらの意を押し出してみましょう。 《添削》 苦瓜の影を育てて秋津島 といたしました。社会事象をあらわに言うのではなく一状況を述べるだけにとどめました。 もしも社会批判的な色彩を強くするのなら、原句の「苦瓜のすくすく育つ」をそのまま使って、次の措辞をこれとは対照的なマイナス方向の言葉にする方法もあるでしょう。即座には浮かびませんが、たとえば「苦瓜のすくすく育つ被曝の国」というような表現も考えられます。けれど、これはかなりシニカルなものです。作者はここまでにはしたくないでしょうね。ともあれ考え方の一例としてご参考下さい。 ![]() 《原句》③ 「すべりひゆ」は漢字で〈滑歯莧〉。〈馬歯莧〉とも書きます。畑や路傍、空地など日当たりのよい場所で見かけます。丈低く地面にへばりつくようにして広がって生える多肉質の植物で、黄色く小さな花をつけます。茎葉は食用になるというので私も茹でて食べてみましたが、いくらかぬめりがあるもののさして美味しいものでもありません。とりたてて人に顧みられることもなく、雑草として一括りにされてしまう植物でしょう。 久しぶりに故郷に帰った作者が眼にしたのがこの「すべりひゆ」だったというのは、何かしら象徴的な気がします。梅の花とか桃の花というのとは違います。炎天下、乾いた地べたを這うように群がっている雑草です。ここには故郷に対する作者の或る気分といったものが反映されているようです。 懐旧の情がないとは言いませんが、それとは裏腹の、故郷というものの鬱陶しさをも同時に胸裡に抱くかのような季語「すべりひゆ」の印象があります。 帰郷の場合なら〈帰省〉の語もありますが、季重なりを避けたかったのかもしれませんね。原句で省きたいのは「見る」の部分です。“もの”が示されていれば、わざわざ「見る」と言わずとも見えているのは自明のことです。ことにここでは「道」に懸かるのか「すべりひゆ」に懸かるのか曖昧な用法になっています。では取り敢えず、 《添削Ⅰ》 としてみましょう。中七「そちこちに」を「そちこちの」として下五に繋げたのは、前者では少々説明的な色合いが付くためです。ひとまとめの名詞のかたちにすることで、視線をあちこちに動かさず、大きく周囲全体が眼に入ってくる、そのようにしておきたいと思います。 上五は先にも述べましたが「帰省して」とするのも一法です。季重なりですけれども、〈帰省〉は生活、〈すべりひゆ〉は植物に分類されるせいでしょうか、障り合う感じはしません。どちらを選択するかは好みです。 さらに〈故郷というものは〉との思いをもう少し進めると、次のようにしてもいいかもしれません。 《添削Ⅱ》 故郷は道の端にもすべりひゆ こちらは「ふるさと」と素直な読みになります。 水原秋櫻子に 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな の句があります。ここでは故郷に対する何がしかの思いは「照るに堪へゆく」の中七に集約されています。 ![]() 《原句》④ 新刊のずしりと届く雲の峰 《原句》⑤ 突然の訃報とどきぬ雲の峰 たまたま同じ〈雲の峰〉で二作品がありました。同じ季語であっても内容次第で、季語自体の味わいが違ってくるという好例になりました。 どちらも五七で人事、坐五に自然を据えるかたちです。つまり句の構成は人事と自然のコントラストによって成り立っています。 ④は、持ち重りのする新刊書への期待感が「ずしり」という手応えで表現されました。夏空に湧き上がる雲の量感が作者の心の弾みに呼応します。 一方、⑤では思いがけぬ出来事が展開しています。いうまでもなく人の命は儚く定めがたいものですが、それはそれとして自然は自然のままに存在します。非情といっては言い過ぎでしょうが、それこそが本来、自然のあるがままの相。作者はきっと無言で雲の峰を仰いだことでしょう。 「雲の峰」は、前者においては躍動感のある雄大な背景を描き、後者においては一瞬の静止画像のような趣きをもたらしました。 両句の成功は、喜怒哀楽といった安易な主観を入れなかったことにあるといえるでしょう。 ![]() |
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(c)masako hara |
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