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第23回 2011/8/19 あ | |||
《原句》① 土つかむ勝つも負けるも甲子園 高校野球のファンにとって、春の選抜も夏の大会も手に汗握る見もののようです。地元の高校が出場していればなおさらのこと、テレビの前に釘付けという人も多いことでしょう。勝負の結果のそれはそれ、球場の土を記念に掬い取っている敗北チームの選手にも大きな拍手を送りたくなります。 作者のそんな心持が伝わってくる句でした。まさに国民的行事といってよい高校野球ですが「甲子園」だけではまだ熟した季語とは認められていません。これは一考を要します。 もう一つの問題は「勝つも負けるも」という捉え方にあります。折角、「土つかむ」との具体的な把握を示しながら、この中七で一般的な概念の句になってしまいました。格言やことわざに近い内容になっています。つまり教訓や道徳訓のような理屈の匂いがしてしまうのです。 多くの場合、俳句は私的な体験や見聞を述べながら普遍性にとどくことで、読み手の共感を得るものだと思います。難しい言い方をしましたが、原句に即して言えば、実際の場面から離れた感想になってしまったということです。 もっと実体の方へ引き寄せたいのです。勝者敗者いずれか一方に絞ることも考えられますし、選手のポジションを示しても印象がはっきりするでしょう。 作者の意図とは異なるかもしれませんが、一例として次のようにすることも出来ます。ご参考下さい。 《添削》 灼けし土摑みし投手甲子園 〈灼く〉が季語になります。勝敗に比重をかけたければ「負けし土摑みし夏を甲子園」とも考えましたが、どちらにしても人物を出した方が状景が見えてくるようです。 原句表記「つかむ」は「摑む」と漢字にすると力強くなります。 ![]() 《原句》② 走り来て夏蝶黒しと声高に 小さな子供さんでしょうか。夏に姿を現わす黒揚羽を見つけたのでしょう。黒い蝶の仲間には烏揚羽もありますが、これらの蝶は普段見かける蝶とはいっぷう変わった印象です。異様、といってもいいくらいのものです。「ほらほら、真っ黒なちょうちょがいるよ」と、一所懸命指さして教えている様子が眼に浮かびます。 「走り来て」も「声高」も、そっくりその通りだったことでしょう。ただし作品にする場合、あれもこれも言ってしまうとかえって印象が薄まります。感動の中心をただ一つに絞って読み手に渡すことで強く響くものです。どちらかを省きましょう。 さらに、ここでは「夏蝶黒し」と言っていますが、普通の会話では「蝶黒し」でしょうね。わざわざ「夏の」蝶が黒い、という条件付きの言い回しはしないでしょう。話し言葉としての表現になっていますから、この「夏蝶」は不自然です。となると、「揚羽黒し」くらいが妥当かと思います。 人物の姿も、特定して見えてくると良さそうです。では、 《添削》 幼な子の声を上げたる黒揚羽 でいかがでしょうか。 ![]() 《原句》③ 明日ひらくかも薄紅の花蓮 作者にとっては思い入れのある蓮の花。ただ、このままですと、報告的に述べただけに終わってしまいます。 「ひらくかも」という軽やかな調子は、この作者には珍しいものです。開花への期待感をここで表現したかったと思うのですが、まだ不足のようです。 ちょっと冒険してみましょうか。 《添削》 きつと明日ひらく私の紅蓮 「きつと明日ひらく」で期待をこめた断定を、さらに「私の」で思い入れを表現したつもりですが、少し興じ過ぎたでしょうか。原句の口語的な味わいに刺激されて、添削もそちらに傾いたようです。「きつと」は現代表記では「きっと」。この部分を抑えて表現するのなら「 作者は「薄紅」に拘りたいでしょうか。音数を整えるためもありますが、添削例の場合は「紅蓮」の方がインパクトが強くなるようです。 ![]() 《原句》④ ため息は西瓜の種をとばしつつ 何かしらの屈託が胸の内にあるようです。それにしては「種をとばす」動作は元気が良すぎますから、まあまあ深刻なものではないのでしょう。それとも、「西瓜の種」といえば「とばす」と、つい決まり文句を使ってしまったというところでしょうか。 西瓜を食べる食欲があるのならたいした悩みではないにしても、もう一歩ふさわしい表現がありそうですが、取り敢えず第一の問題点として、切れがないために冗漫になっている形に手を入れてみましょう。単純に切れを入れれば、 ため息や西瓜の種をとばしつつ ですが、「や」の切れ字は強いものですから、内容に対して大仰な感じもします。 ため息や西瓜の種をとばしては となると、種をとばすたびにため息をつくという対応関係が強まって、「や」がそれほど浮き上がらないかもしれません。 さて、それでもやはり「とばす」のままでは限界がありそうです。「ため息」を無理なく納得させたいですね。作者の意図になるべく沿って手直ししてみます。 《添削》 ため息や西瓜の種を 原句は「ため息」の内容には触れていません。動作を主軸にしています。これとは逆に心情を主体に描いて、食物を取り合わせた句をご紹介しましょう。 白玉や人づきあひを又歎き 中村汀女 麦湯煮て母訪はぬ悔かさねをり 小林康治 ![]() 《原句》⑤ たっぷりと紫陽花に雨敗戦忌 八月十五日の終戦記念日を、終戦忌・敗戦忌と言うのは俳人の造語だそうですが、確かに〈敗戦(の)日〉の方が客観的事実に即した言葉かもしれません。気持ちの在り方によって選ぶべきかと思います。 戦後、長い時間が経ちました。日本人にとって忘れることの出来ない日ですが時とともに風化の度も早まっています。それこれ考えますと、たった一語のことですが、 原句はこの日の雨を紫陽花に重ねて詠んでいます。降りつづく雨脚を眺めながら、敗戦の日であることを想起したのでしょう。特別な日だからといって声高な表現にはせず、淡々と叙景のみにとどめたところに好感を持ちました。 そのうえで、表現の適否を見てみましょう。雨に濡れた紫陽花、それはよいとして、「たっぷりと」の形容に違和感を覚えます。この語から受ける印象は豊満な、いわばプラス志向の明るいものです。植物にとっては恵みの雨ですが、それが「敗戦忌」と結びつくとき、心持ちの上でちぐはぐな断絶があるように感じられるのです。「たっぷりと」に代わる言葉、「びっしょり」などもありますが、 《添削》 紫陽花にしとどの雨や敗戦忌 語順を入れ換えてこのようにしてみました。 なお、原句は「紫陽花」となっていますが、ご承知のようにこの花は六、七月の梅雨時に咲きます。敗戦日の8月中旬には茂りだけになっているはずで、そのつもりで読んでもよいのですが、表記の点からもどうしても花が浮かんでしまって損をするようです。樟や椎の木のようなものなら、その点を回避できますし、季重なりでも良しと覚悟するならば、この時期もっとも盛んな〈花合歓〉などでもよいでしょう。工夫してみて下さい。 ![]() 【表現の統一について】 〈原句④〉ため息は西瓜の種をとばしつつ 〈原句⑤〉たっぷりと紫陽花に雨敗戦忌 この二句には、表現上よく似た留意点がありました。④では「ため息」と「種をとばす」との関係、⑤では「たっぷりと……雨」と「敗戦忌」との関係です。 「種をとばす」のも「たっぷりと……雨」も、その時その場での作者の実感だったことでしょう。ただし作品として一句全体を眺め渡したとき、「ため息」「敗戦忌」それぞれへの架け橋に、感情の流れの断絶があるようです。たった十七音の表現の中で異質な感情がぶつかり合うことは作品の統一を妨げます。 最初の実感に固執するのではなく、出来上がった作品を客観的に見ることで、実感と思っていたものに修正を加えるのが大事だと思います。一句全体を通じて何を伝えたかったのか。部分的な実感にしがみつくことなく、省略や言い換えなども駆使して主題となる核心を摑み取ってゆきましょう。 |
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(c)masako hara |
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