わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第24回 2011/8/26 


《原句》①

  香水や第六感のあらざれど

 私たちが普通に持っているのは視・聴・嗅・味・触の五つの感覚まで。第六感は摩訶不思議な直感の領域ということになりましょうか。
 さてここで香水の香を漂わせているのは、作者自身なのか、それとも別の対象であるかによって解釈が揺れてきます。
 作者ということであれば、第六感といわれるような鋭敏な感覚は持っていないけれど(その代わりに)香水を身につけている、との内意になってきます。
 一方、これが他者である場合、たとえば分かりやすいので〈夫〉に例をとりましょうか。――おや、香水の匂いがする。一体どこで何をしていたやら。それほど直感が鋭い訳ではないけれど私にだって分かりますわよ――ということになりはしないでしょうか。
 後者は少々通俗的な内容になります。このような読みに誘うのは「第六感」という、日常卑近に使われる言葉によるものだったと思います。
 解釈を極端に対照させましたが、詩情の点からみても、後者の内容からはこれ以上のものは出て来ないでしょう。前者の解を採用しておきます。
 原句の「あらざれど」は〈無い〉との観点から言っているのですが、逆の捉え方で表現するとどうなりますか、つまり香水をつけたことで変化が生まれているのですから、そちらを生かした方が率直な表現になりそうです。
 単純な言い換えでは、
  香水や第六感の覚めしごと
  香水や第六感を目覚めさす
程度でしかありませんが、中七以下のフレーズを身体の状態に引き寄せて言ってみましょう。

《添削》

  香水の香をたてて身を(さと)くせり

 〈香水〉の季語で、次のような例句があります。
  香水の香ぞ鉄壁をなせりけり      中村草田男
  香水や衿掻きあはす癖のまた      稲垣きくの
 前句は第三者として、後句は作者自身です。〈我〉とも〈人〉とも言っていませんが、対象者がはっきりと見えています。




《原句》②

  座を移す部屋の四隅の残暑かな 

 「部屋の四隅の残暑かな」の把握に感心しました。
 室内の隅の部分は陰翳の濃く感じられる場所です。空気も淀みやすい。だからといって「暑さかな」ではそれだけのことですが、〈残暑〉となるといったん涼しさを覚えて後にぶり返す暑さですから、そこには自ずから気持ちの上での陰翳も添ってくるように思います。
 そこで、上五の「座を移す」に拘りたくなります。「移した」ならば、改めて座を占めた別室であることがはっきりしていますが、「移す」となると、出て来た部屋か、別室の方なのか、曖昧さが残るようです。さらにもっと重要なのは、座を移そうと移すまいと「部屋の四隅の残暑」は頑としてそこにある訳で、この中心的な把握をこそ生かしたいのです。「座を移す」は、たまたまその場での状況でしかありません。黙っていてもじわりと汗が滲んでくるような〈残暑〉を、効果的に感じさせるにはどうしたものでしょうか。
 まずは動きを封じてみましょう。「移す」のではなく静止した状態に。となると、「座を占めて」「座に在りて」など考えられますが、一案として、

《添削》

  正座して部屋の四隅の残暑かな

としてみました。
 次に作者の作句状況から離れた参考ということになりますが、

《参考例》

  父逝きし部屋の四隅の残暑かな

 これは、実は私の経験に基づいたものです。肉親の死と「残暑」の思いがひびき合って季語に深みが与えられるかと思うのですが、ご参考下さい。




《原句》

  空に咲き水面に咲きし大花火

 高々と揚がる花火を、空にも水にも、と捉えたのが眼目です。ここは是非とも「咲きし」を「咲きぬ」として切れを入れましょう。「咲きし大花火」と繋げてしまうと説明になってしまいます。中七ではっきり切って、一呼吸入れることで余韻が生まれます。花火が、いかにも大きく華麗に見えてきませんか。口ずさんでみて下さい。
 川花火もしくは海べりで打ち上げる花火だったのでしょう。広やかな空間を感じさせる作品です。

《添削》

  空に咲き水面に咲きぬ大花火

 〈咲く〉という比喩的表現を避けるのなら、
  大花火空に水面にひらきけり
とすることも出来ますが、作者の工夫を尊重して、そのままといたしましょう。




《原句》④

  朝顔のごとくまあるく生きるかな

 朝顔は夏の終わり頃から咲き始め、初秋つぎつぎに咲いて眼を愉しませてくれます。名前の通り朝開いて、昼近くには萎んでしまうところからその儚さを詠まれることも多い花です。もっとも最近は、西洋朝顔というのでしょうか、昼日中に逞しく咲いているのを見かけたりもするのですが。
 原句は花の形に眼をとめています。朝顔を賞でる心持が自分の生き方への感慨に結びついたのでしょう。
 「生きるかな」は現在生きていることになりますけれど、作者が言いたかったのはむしろ円形に咲いている朝顔の花のようでありたいという願望、意思であったのではないでしょうか。それなら、

《添削》

  朝顔のごとくまあるく生きむかな


と、助動詞「む」を使って意思の意を表しておきましょう。



《原句》⑤
  
  茄子胡瓜焼物犬に守られて

 「焼物犬」とは作り物の犬のことでしょうか。少々窮屈な言い回しです。〈焼物の犬〉または〈陶製の犬〉と言うべきでしょうね。庭園の景観の一つとして置かれていたりしますが、そうするとこの茄子や胡瓜も畑ではなさそうです。自宅での地植えか、鉢やプランターのたぐいなのでしょう。
 収穫された茄子や胡瓜が置かれている室内の状景として鑑賞することも出来ますが、これは屋外の景であるほうが面白い。作り物の犬が守っているというのもユーモラスです。さらに、茄子も胡瓜もと、あれこれ取り込むより、どちらか一つにして印象を絞りましょう。

《添削》

  陶製の犬が守りぬ茄子の鉢

 「鉢」とすると庭であることがはっきりするでしょう。
 なお、「犬の」でなく「犬が」としましたのは、いくらか強調したかったためです。「の」ならば穏やかに収まりますが、「が」と強めたほうが、この句のユーモラスな見立てが引き立つかと思います。




【お便りから】

 投句されている方々から時折お便りをいただきます。作品の背景がよく分かって愉しいことです。一つご紹介しましょう。
 前回、「たっぷりと紫陽花に雨敗戦忌」について、八月十五日頃には紫陽花は花期を終えている筈と申し上げました。ところが、この作者は北海道在住の方。紫陽花は全盛期だそうです。
 歳時記の季題はもともと関西地方で培われた詩語です。桜を例にとってみても日本列島の南と北では一ヶ月以上の差があるように、地方によって、自然への実感、ひいては生活実感も異なることが多いと思います。通常の歳時記には扱われていない風物もあって、地方歳時記という形で、風土の自然に目配りしたものが出版されたりしています。
 季の詞は詩歌の歴史の中で定着していった言葉ですから、実際の状態とは違う場合も間々あります。たとえば〈蛙〉。実態としては夏の頃、盛んに姿を見かけますが、初めて出てくる春を季に定めているのは、出初めを賞翫する心によるものといわれます。詩ごころが育んだといってもよいでしょう。
 それらのことも念頭に置いた上で、地域的な差異を消極的に捉えるのではなく、風土をいきいきと摑みとる言葉を発信していきたいものだと思っています。




(c)masako hara







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