わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第29回 2011/9/30 


《原句》①

  何人かは見上げて通る銀杏の実

 いちょうは雌雄異株で雌花が受精して実を結ぶ珍しい植物です。晩秋、葉が黄ばんでくる頃、葉叢から黄熟した実を覗かせています。地面に落ちて踏まれたりすると相当な悪臭を放ちますが、このいちょうの実、つまりぎんなんが美味しいことはご存じの通り。
 落ちているのを見て気がつく場合が多いのですが、知っている人は「やあ随分成っているな」などと木を振り仰いでゆくのでしょう。たまたま一枝にかたまっているのを見つけると、あっちの枝にもこっちの枝にもと次々に目に入ってくるものです。
 原句はそういう通りすがりの人々の様子を描いています。確かに全ての人が見上げていく訳ではない、気がついた数人だけの動作ですが、「何人かは」の「は」という強調が句を説明的にしています。不必要な限定でしょう。
  何人か見上げて通る銀杏の実
 これで充分です。
 さらにこの「何人か」というのは、同時ではなさそうです。さっきも一人、また今も一人、といった具合に時間の経過の中で眼にした状景のようです。それならば、

《添削》

  また一人見上げて通る銀杏の実

としてはどうでしょう。景に動きも出てくるかと思うのですが。




《原句》②

  てっぺんが咲ゐて危ふし葵かな

 「咲ゐて」は〈咲いて〉〈咲きゐて〉のどちらのつもりだったでしょう。
 〈咲きゐて〉は正しい表記ですが中七字余りになりますから〈咲いて〉を採用して、仮名遣いについておさらいしてみます。
 文語の〈咲きて〉は、もちろんこのままの形で用いられますが、イ音便の変化をすると〈咲いて〉となります。これは歴史的仮名遣いの場合でも〈い〉でよいのです。「ゐ」の表記にはなりません。
 イ音便の例として、〈聞きて〉〈付きて〉〈書きて〉など、いずれも〈聞いて〉〈付いて〉〈書いて〉となります。
 音便というのは発音上の言い易さの為に、もとの音とは違う音に変化することを言います。イ音便の他に〈ウ音便〉〈(はつ)音便〉〈(そく)音便〉があります。
 〈ウ音便〉の例 問ひて→問うて
 〈撥音便〉の例 飛びて→飛んで
 〈促音便〉の例 取りて→取って
などですが、間違え易いのは〈ウ音便〉の場合で、例にあげた〈問うて〉は終止形が〈問ふ〉であるために〈問ふて〉と表記する間違いがよくあります。
 なんだか難しそうに聞こえますが、やっているうちに馴れるものです。ご心配なく。
 さて、原句に戻りましょう。「葵」にはいくつか種類がありますが、現在一般的に葵と呼ばれるのは〈立葵〉を指すことが多いようです。白、赤、ピンクなどの花が、一メートルを越す高さを次々に下から上へ咲きのぼります。てっぺんまで辿りついて咲く頃は、そろそろ花時を過ぎてきます。
 この時期の花の形状を「危ふし」と捉えたのは作者の感覚です。盛りを終えようとしている立葵にふと不安定な印象を覚えたのでしょう。
 「危ふし」は形容詞終止形で、ここで切れてしまいますから「危ふき」と下に繋がるように。「かな」を使うかどうかは好みですが、内容に対して強すぎる感じがしますから、下五は名詞の止めにしておきましょうか。

《添削》

  てつぺんが咲いて危ふき立葵





《原句》

  実石榴や石塀長き坂の道

 たとえばこの句が、面白く仕立てた人事句や犀利な感覚句の中に置かれていたら大方が見逃してしまうのではないか、そのくらい自己主張の少ない句です。主観を交えず淡々と景が叙されています。こういう作品には読み手の方も静かに向き合う気にさせられます。
 石塀に沿ってゆるやかに坂が続いています。車もほとんど通ることのない、ひっそりした歩道です。塀際から枝を伸ばした石榴の木が紅い実をいくつも付けていて、中の一つ二つは裂けた果皮から淡紅色の粒を覗かせていたかもしれません。秋の日差しが静かに映えています。
 朝、昼、夕方、いずれの時刻であってもいいようです。というより、この句は鑑賞者の経験や記憶によって景に厚みが加えられる、そういう種類の句と思います。
 力みのない、いい作品でした。




《原句》④

  厨事子らにまかせて今日の月

 十五夜のまどかな月明り。多分、夕食の後のこまごました片付けを子供さんたちがやってくれているのでしょう。台所から聞こえてくる皿小鉢の触れ合う音や水の音、時折まじる笑い声などから少し距離をおいて、月を眺めているひととき。
 「今日の月」は、名月、望月、満月、十五夜、どれも同じことで、どの言葉を使ってもよいようなものですが、それぞれ印象が微妙に違ってきます。作者は「今日の月」を選びました。今日この時の、という意が強まって、月を賞でている作者の心持が前面に出るように感じられます。
 言葉の運びに無理のない、平明な作品です。




《原句》⑤
  
  秋の蠅ゆるき動きに打つ気なし

 「やれ打つな蠅が手をする足をする 一茶」に一見、似ています。一茶の庶民性は時に大衆の俗情におもねる場合があって、その故に敬遠する向きも多いのですが、この例句もその弊を免れてはいないようです。
 一茶句に一見似ていると言いましたが、それは素材と発想の共通性であって、原句は卑近な俗からは遠いところにあります。むしろ、秋に入って衰えを見せ始めた蠅を即物的に描いて本質を捉えています。
 問題は下五の「打つ気なし」の部分でしょう。自分の意思や気持ちを述べてしまわずに、行為を示しておくだけで充分です。作者の気持は読み手に委ねます。

《添削》

  秋の蠅ゆるく動くを打たずをり






(c)masako hara







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