わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第30回 2011/10/7 


《原句》①

  手秤の重き南瓜の旨きかな

 戦中戦後の食糧難に嫌というほど食べたから、恨み骨髄、見たくもないと仰言る年配の方もおいでですが、何といっても栄養価が高く保存もきく有難い野菜です。
 三、四○○年前に渡来した日本南瓜と呼ばれる種類の他に、明治以降輸入され冷涼地栽培に適した粉質大果のものや観賞用の、二種の西洋南瓜があります。
 夏の間、盛んに葉を茂らせ茎を伸ばし、秋近くなると結実します。原句にもあるように、ずっしり重い南瓜ほど美味しいものです。
 原句はまさにその通りを言っている訳ですが、〈重い〉と〈旨い〉と両方に焦点が当てられることで印象が分散しますし、説明的にもなります。手秤で重さを確かめている場面と、旨い旨いと食べている場面と、どちらか一つに絞りましょう。

《添削》

  手秤に重きを選ぶ南瓜かな
  手に載せて重きを選ぶ南瓜かな

 参考として、〈南瓜〉がどのように詠まれているか歳時記の例句を見てみましょう。
  我が南瓜ひき臼程になりにけり   高浜虚子
  南瓜煮てやろ泣く子へ父の拳やろ  磯貝碧蹄館
 前句の「ひき臼」は「碾臼」。成程、どしりと据わったその形は南瓜の比喩としてユーモラスです。俳句の用法でいえば〈一物仕立て〉、つまり一つの素材だけで詠まれています。一方、後句の方は「南瓜煮てやろ」と「泣く子へ父の拳やろ」との二つの事柄の〈取り合わせ〉になります。「……やろ」という口語調が明るい気分を引き出しています。
 〈南瓜〉は親しみを感じさせる句材のようです。




《原句》②

  秋桜や園児の帽子花に揺れ

 和名では〈秋桜〉。一般的には〈コスモス〉で通っていますが、メキシコ原産の一年草です。観賞用に栽培されますが、強健なので路傍や川原、空地など至る所で咲いています。秋の草花の代表格でしょう。大人の背丈ほどの高さになるため、風に揺れやすく、その風情を
  コスモスの影をとどめず風吹けり  石原舟月
  コスモスの風ある日かな咲き殖ゆる 杉田久女
と詠まれたりしています。
 一面からいえば風とコスモスは付き物ですから、作品化の場合、常識的な取り合わせで終わってしまわない注意が必要なようです。〈揺れる〉の語も〈風〉と同質の言葉ということになります。
 さらに、コスモスの優しいイメージに、子供や女性を配するのも類想に近付く危うさを感じさせます。
 作句の注意として、付き過ぎと類想という二点を上げました。原句はこれらの問題点を抱えてはいますが、「園児の帽子」という具体的な着目によって救われています。
 あと一つ推敲したいのは、一句の中に「秋桜」「花」が繰り返し使われている点です。たった十七字の詩型ですから、なるべく無駄を省いた表現を工夫しましょう。

《添削》

  コスモスと園児の帽子揺れやすき


 原句の「秋桜や」は六音の字余りです。コスモスと詠ませたかったかもしれませんが、出来るだけ無理な読みは避けたいものです。素直に〈コスモス〉とした方が、子供の愛らしさにふさわしいと思いますがいかがでしょう。




《原句》

  甘さゆえ やむにやまれぬ 生くるみ

 「心余りて、ことば足らず」と評されたのは古今集の歌人、在原業平でしたが、原句作者にもどうやらそんなところがありそうです。つまり、思いが先行して言葉がゆき届いていない為に、読者に伝わらないのです。
 辛うじての解釈になりますが、〈自分の気持の甘さでどうにもしょうがない事態なのだ〉という心情の吐露でしょうか。「生くるみ」とは聞き馴れない言葉ですが、まさか料理の一つという訳ではないでしょう。それならば単に〈くるみ〉というだけでよいのです。作者の傍らに置かれていたか、もしくは樹上に実ったものを見ているか、一句全体の内容によって決まってきます。
 中七までで感慨を述べて、下五が背景となる場合は「やむにやまれず」と終止形にして下に続かぬように切れを入れます。原句のままですと、やむにやまれずにいるのは〈胡桃(くるみ)〉という構文になってしまいます。
 上五の「甘さゆえ」も、唐突に言われているので、食味としての「甘さ」か、心情の「甘さ」か分かりにくい表現です。
 先に述べた解釈でよければ、次のように。

《添削》

  青胡桃やむにやまれぬ思ひあり
  やむにやまれぬ思ひのありぬ青胡桃

 述懐の部分と、背景の季語と、語順を違えて二例出しました。後句は上五字余りになっています。こちらは切迫した感情がやや強く響きます。
 〈胡桃〉は秋、〈青胡桃〉は木に成っている未熟果で夏の季語です。強い感情表現を抑制しつつ照応するかと思うのですが。この部分をたとえば〈胡桃割る〉のような季語にしてしまうと、情動の激しさの上に強い動作までが加わってベタ付きの表現になり、余情が生まれません。どんな季語がふさわしいか考える参考にして下さい。
 なお、原句表記は上五と中七の後が一字あきになっていますが、何らかの意図がある場合以外は間をあけずに一行書きで結構です。




《原句》④

  道なりに飛び火したるや曼珠沙華

 「飛び火」とはまた何という機知に富んだ把握でしょう。
 曼珠沙華が火のようだというだけならむしろ平凡な比喩にとどまります。赤い色、そして火花が爆ぜたような蘂の形状からは十中八九の人が火を連想するに違いありません。ところが作者はそこから発展して、一かたまりずつ群生しながら点々と続く曼珠沙華を俯瞰的に捉えました。正確な描写です。
 残念なのは「道なりに飛び火」とした説明調の為に、状景がいきいきと感じられないことです。もっと驚きのある表現にならないでしょうか。真っ先に目に飛び込んだのは炎の連なりのような曼珠沙華だった筈です。「道なりに」というのは、あとからの状況説明でしょう。あっ、と思った瞬間の驚きを読み手も共に味わいたいのです。では、

《添削》

  飛び火して道の先先曼珠沙華

としてみました。ご参考まで。
 「先先」は平仮名で「さきざき」としてもよいですね。




《原句》⑤
  
  コスモスや母と他愛のなき話

 ほのぼのとした作品です。この句の主人公に息子を思い浮かべる人はまずいないでしょう。母と娘、女同士の他愛ないお喋り。日常の中の小さな幸せを感じる句です。
 「母と他愛のなき話」のフレーズに配される季語は、日常よく見かける草花なら何でも似合いそうに思いますが、秋の季節に限ってみますと案外ないものです。萩や撫子、露草、野菊、どれも余分な情感を引きずったり可愛らしすぎたり。コスモスは優しげななかにも近代的な明るさを合わせ持つ印象があって、程の良い付き具合といえるでしょう。
 このような句の場合、植物だけに拘らず、歳時記の分類項目を眺めてみると、返って自分の実感にぴったりした言葉が見つかったりします。いい参考になります。とはいえ、実景から受けた自分だけの正直な実感を手放してしまっては何にもなりません。自分にとっての真実を大事にしてゆきましょう。
 さて、実はこの原句から「秋桜」という山口百恵の歌を思い出したのです。嫁いでゆく娘と母、それが秋桜つまりコスモスを背景に歌われていました。慌てて歌詞を調べましたが、シチュエーションは似ていますが、同じ言葉は使われていませんでした。
 歌を知っている人には既視感があって、いくらか損をするかもしれませんが、一句の世界はこのままで出来ていると思います。





(c)masako hara







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