わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第31回 2011/10/14


《原句》①

  濃やかな秋日とらへて袖うだつ

 「うだつ」は建築用語でいう〈梲〉ですね。卯建、宇立とも書くようです。本来は梁の上に立てて棟木を支える短い柱のことですが、後代、隣家からの類焼を防ぐため設けられた防火壁の様式をいうようになり、次第に装飾的になったといいます。
 辞書には、一階屋根と二階屋根の間に「卯」の字形に張り出した小屋根付きの袖壁、とあります。原句の「袖うだつ」はこのことでしょう。漆喰の塗壁なら白々と秋日に映えていたことと思います。原句はその印象を摑んだものですが、秋日の中に浮かび上がる袖梲がもっとありありと見えてきてもよさそうです。
 照りつける秋日と、その秋日を受けている袖梲と。双方の比重が同じ為に、返って印象がぼやけてはいないでしょうか。秋日を形容する「濃やか」は少々念を入れすぎているのかもしれません。単純に〈濃い〉というくらいで構いませんし、むしろ無い方が「とらへて」の把握が生きます。つまり日の光を照り返す、もしくは吸い込むような、袖梲が見えてきます。となると、「秋の日をしんととらへて袖梲」ともなりますが、次に、「とらへて」という能動的修辞がふさわしいかどうかを考えてみましょう。
 秋の日ざしは案外強く照りつけます。とはいえ、そこに一抹の静けさも漂うように感じられる、そのような光の中に袖梲のたたずまいがある、という状景です。それなら日ざしをわざわざ「とらへ」なくとも、照らされている・浴びているだけで充分と思います。

《添削Ⅰ》

  秋の日をしんととどめて袖梲
  秋の日の照るにまかせて袖梲

 「とらへて」の把握は作者の有情の表われかもしれません。添削二例はその作者の意図に近づけています。
 次の例はもっと抑えた形です。ご参考下さい。

《添削Ⅱ》

  しんかんと秋の日ざしや袖梲

 なお、「うだつ」は難読漢字に属するでしょうが漢字にしておいた方が意味が通りやすいかと思います。




《原句》②

  秋の昼校歌で締めて校庭の劇

 文化祭などの催しの一つとして、校庭でお芝居を披露したという状景でしょうか。
 「締めて」は、劇の最後に役者全員が舞台上で校歌を歌って締め括った、との意かと思います。高校生くらいの年代を想像しますが、役者も観客も生徒同士、和やかな大合唱となったことでしょう。傍らの父兄も先生も思わず笑顔という光景が浮かびます。
 面白い素材でしたが、単語をいくつか手直ししてみます。

《添削》

  秋高し校歌で閉づる野外劇


 原句の「校庭の劇」は、校庭で行われる劇の意でしょうが、どう表現するか苦労したところのようです。七音の字余りですから間伸びしています。「野外劇」として収めました。
 「締めて」、これは最近の日常会話でもよく聞かれる言葉です。集りや酒席の終わりに〈締める〉とよく使われたりしますが、句の内容からは少し俗な感じがしないでしょうか。校歌をもって劇を終える・閉じる、とさらりと言っておくことにしました。
 そこで次に、この状景を大きく包みこむ上五の季語です。「秋の昼」は実景そのままを説明しています。もう一歩進めて、晴ればれと爽やかな秋の天候を感じさせると、生徒たちの劇の一部始終、その成功が楽しく眺められるのではないでしょうか。「秋高し」はそんな効果をもたらしてくれるかと思うのですが。




《原句》

  末枯れてせせらぎの音淙淙たり

 〈末枯(うらがれ)〉は晩秋、草木が葉の先から枯れはじめるのをいいます。ふと眼にした足元の草など黄ばんでちりちり縮んでいたりすると、近づく冬に思いが及び凋落の季節の訪れを実感させられます。新緑万緑の夏や、枯れの冬に比べて、微妙な情趣を含んだ季語といってもよいでしょう。
 季節感としてはそのようなものですが、ここで水音に興を覚えた作者の感受性は鋭いと思います。
 残念なのは「せせらぎ」「淙淙」のいずれも、水の流れる音の表現である点です。たった十七音ですから同義の語を重ねるのは言葉の無駄です。
 さらに、この作品では〈末枯〉の季節感が大きく一句を支配しています。このような場合ははっきり切れを入れて季語を据えたいのです。「……して」と続けると、軽くなってしまうようです。

《添削》

  末枯や瀬音のひびきやすくして
  末枯や夜も川瀬の音高く

 原句は〈末枯〉を動詞の形で使っていますから、「末枯れて」と送り仮名がありますけれど、添削句は名詞ですから送り仮名は入れませんでした。
 一般の辞書では〈末枯れ〉で出ていますが、歳時記の表記に準じます。




《原句》④

  ありがたう新米一合とぎにけり

 新米で炊いた御飯を食べるとき、この国に生まれてよかった、とつくづく思います。そのくらい喜びをもたらす食材ですが、原句の「ありがたう」は、その言葉だけがぽつんと置かれて、下のフレーズに繋がらない為に、何に対する感謝なのか分かりにくくしています。
 新米を送ってくれた人がいて、それへの感謝なら、「到来の新米を研ぎありがたう」ともなりますが、頂き物に対しての感謝では当たり前すぎるでしょう。
 これは、秋の実りの代表である新米そのものへの感謝。もちろん、そこにはお百姓さんの苦労への感謝が含まれますが、そのように解してよさそうです。私たちは日頃、当然のこととして食物を口にしていますけれど、主食の、しかも新米に対しては思わず「ありがたう」の念が湧きます。食物の有り難さを思い出します。
 そこでもう一つ、「一合」という数の限定です。たった一合を大切にという思いでしょうがこの場合、数量は効果を発揮しません。「新米」だけで充分です。

《添削》

  新米を研いで呟くありがたう

 語順を入れ換えて、二つのフレーズを関係づけました。




《原句》⑤
  
  耕せる生姜の香り手にも有り

 原句ですと「生姜」を耕すことになってしまいます。正しくは「耕して……」とするべきですが、本来〈耕す〉の意味は作物を植える準備として田畑を掘り返す訳ですから、生姜は植えられていない筈です。
 作者は生姜を収穫したのではありませんか。現場の実際を知らないのですが、掘り返すなり抜き取るなりの作業かと思います。
 生姜の香が手に移っていたというのは、いい発見です。その発見の驚きが生きるようにしたいのですが、まず部分的に手直しをしてみましょう。
  抜き取りし生姜の香り手に残る
 「手にも」とせずに「手に」と、「手」以外を感じさせぬ表現にして印象を引き緊めます。「有り」も当然の言葉ですから、せめて「残る」というくらいにして。
 ただし、これだけでは報告に終わっているようです。「生姜の香り」が際立つようにしたいものです。

《添削》

  畑仕事終へて双手の生姜の香





(c)masako hara







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