わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第34回 2011/11/11


《原句》①

  水鳥も日溜まり恋しかたまれり

 湖沼や河川などに群れている水鳥の状景です。原句は、明るく日の射している水面に集まっている鳥を眼にした印象を捉えています。
 内容を理屈っぽくしているのは、まず、「水鳥も」の「も」。人間(自分)のみならず水鳥もまた、という意を含ませている点です。もう一つは〈日溜まりが恋しいので集まっている〉という意味の続きかたです。
 作者の把握の中心は中七にあると思われます。擬人化した捉え方ですが、ここを生かしておきましょう。
 次に言葉の問題としては〈かたまる〉の語ですが、水鳥のように柔らかなイメージの生きものに対して似つかわしくない形容かもしれません。しなやかさが消えてしまうのです。日常的にはよく使いますが、一句の世界を描くにはもっとふさわしい言葉や何気ない言葉の方がよさそうです。
 「水鳥」も、種類を特定すると鮮明な像が浮かぶのではないでしょうか。
 それこれを総合しますと、次のように。

《添削》

  日溜りを()ふかに群れてゆりかもめ

 語順を換えてこのようにいたしました。「ゆりかもめ」は一案ですが、この鳥は別名を都鳥。隅田川や宮城のお濠などでよく見かけます。




《原句》②

  岩木山たわわな林檎似合いけり

 岩木山は青森県を代表する山。津軽富士の異称を持つ姿の美しい山です。一方、林檎も同じ県の名産。収穫期を迎えて紅を点じるように実った果樹園の景色は、岩木山を背景にこれほど似つかわしいものもないでしょう。
 とはいえ、この「似合いけり」は作者の感想です。感想を押しつけられてしまっては読者に想像の余地はありません。読者にとって作品の背後に広がる語られなかった部分を想像することこそ鑑賞の醍醐味なのですから。
 つまり必要なのは景だけを示すことです。「岩木山」と「林檎」、これが一句の核になります。山はどんなふうに見えているのか、林檎の木はどうであったかを描くわけですが、取り敢えず「たわわな林檎」と原句にありますから、これはそのままにしておきます。欲をいえば、「たわわ」という形容は常套的なもので、作者自身が摑んだ新鮮な言葉が出てくるともっとよいのですが、それは次の課題に取っておいて今回はこれでいきましょう。

《添削》

  岩木山聳えて林檎たわわなり


 現地で林檎栽培に携わっている人であれば、収穫作業を表す表現など、臨場感があってよいのですが、おそらくそうではなさそうです。眺めた風景としての添削の一例です。




《原句》

  熱燗やほぐるる兄の国訛

 いい情景ですね。故郷を離れて、それぞれ一家を成して暮らしているご兄弟でしょうか。ある程度の年配者であることが「熱燗」から想像されます。
 日頃の緊張から解放され、お酒の酔いも回る頃、弟を相手に懐かしい郷里の訛に戻っている。そんな場面が過不足なく描かれています。「どうだ、この頃は」「いや相変らずだよ、この間はちびすけが風邪をひいてな、もう良くなったが」「そうか大事にしろよ」――他愛ないやりとりに情が通います。
 思わず楽しんでしまいましたが、上五の「熱燗や」を切らずに「熱燗に」としてはいかがでしょう。一句の流れを切断せず、一句一章の形を取った方が自然な情感が伝わるかと思います。

《添削》

  熱燗にほぐるる兄の国訛




《原句》④

  晩秋や野焼きの匂ひも香ばしき

 〈野焼〉は、早春、枯草を焼き払って、その灰を肥料として新しい草の成長をうながし、牛馬の肥料とすることを主な目的にするものです。(わらび)(ぜんまい)の発育の助けともなり、害虫駆除に役立ちます。同様の季語に〈山焼〉〈畑焼〉〈芝焼〉があります。
 目的からいっても春先に行なわれるものですから、作者が見たのは本来の意義とは別のことだったのではないでしょうか。違う表現が必要になってきます。
 何のためかは分かりませんが、野づらに上がる炎と晩秋の季節感は好もしく感じられます。「匂ひ」を言うより〈火〉に主眼を置いた方が、この季節の空気が鮮やかに伝わるようです。
 付け加えますと、原句の「香ばしき」は少々言いすぎでしょうね。この場合は「匂ひ」だけで充分です。
 さて、それでは「晩秋」と〈火〉で次のようにしてみました。

《添削Ⅰ》

  晩秋や野の一隅に火を焚けり

 どういう目的の火であるかはここでは言っていません。一つの光景だけが見えています。
 もしもこれが「野」ではなく、田や畑であった場合は、収穫を終えたあとの田仕舞・畑仕舞の片付けであろうという想像が働くかと思います。生活感が出てきます。ご参考下さい。

《添削Ⅱ》

  晩秋や田の片隅に火を焚けり

 添削Ⅰでは「一隅」、添削Ⅱでは「片隅」と使い分けました。田畑ならば範囲が区切られていますから「片隅」で違和感はありませんし、日常的な言葉です。野原となると茫漠として中心も何もありませんから、或る一つの隅、という意味の語を使いました。




《原句》⑤
  
  秋深し明日香の(むら)の遙かなり

 「遙か」の語は、距離の遠さでもありますが時間的な意味も含みます。つまり多分に気持の上での遠さを思わせます。作者の意図はそこにあるのかもしれません。歴史の中に浮かび上がる明日香という土地への遙けき思いです。
 それに対置された「秋深し」は、これまた情趣を曳く季語で、思い入れが過ぎてしまいます。句の世界がムードで終わってしまいそうです。具体性のある季語で引き緊めましょう。
 もう一つの方法としては「遙か」の代わりに現実の距離感を表現することです。単純に直すなら、

《添削Ⅰ》

  秋深し明日香の村を遠く見て

 原句は上五と下五両方に切れが入って、一句の焦点が分散します。「遠く見て」と、接続する形にとどめておくことで、情感の流れがゆるやかに「秋深し」に還っていくようです。
 「群」の字が使われていましたが、家群や草群はありますが、地名に直接掛かるのは無理かと思います。歴史性を感じさせる〈邑〉の文字もありますが、素直に〈村〉でよろしいでしょう。
 次に、先に述べた具体性のある季語を選ぶ場合です。いろいろ考えられますが、秋になると山地から人里に移ってくる(ひよどり)など、どうでしょうか。柿などを啄む姿がよく見られます。

《添削Ⅱ》

  (ひよ)鳴いて明日香の村を遙かにす

 鵯の声が契機となって、彼方の村落がいよいよ遙かな距離に思われてくるということです。




(c)masako hara







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