わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第38回 2011/12/9


《原句》①

  綿虫に手のひらかざし遊ぶ夕

 〈綿虫〉は植物に寄生するアリマキの一種で、晩秋から初冬の頃ふわふわと飛ぶのを見かけます。これは寄生する植物を変えるために移動しているのだそうですが、腹部の末端に白い綿のような物質を付けているところから、綿虫・大綿・雪螢・雪婆(ばんば)(しろ)()(ばば)と、いろいろに呼ばれています。地方によって呼び名が変わるのでしょうし、それだけ、各地で親しまれているということでしょう。
 青白く空中を浮遊して、掴まえると白い綿が手に残ります。
  綿虫やそこは屍の出でゆく門    石田波郷
  大綿は手にとりやすしとれば死す  橋本多佳子
のように詠まれていますが、結核療養所生活を過ごした波郷の句における〈綿虫〉には象徴性がうかがわれ、多佳子句の方は情念をひそめながら即物性に近づいています。
 原句作者は、ゆるやかに飛ぶ綿虫とひとときを戯れたようです。夕暮れの微光がふと作者のそんな行為を誘ったのかもしれません。
 「手のひらかざし」と、具体的な動作を言っていますから「遊ぶ」まで言わなくとも充分です。その時の一瞬の姿だけが浮かぶように。「遊ぶ」は動作の説明をしてしまって、読み手に感じとってもらう余情を消すことになります。
 さらに末尾に置かれた「夕」一語も、取ってつけたような印象になっています。
 それこれ併せて手を加えますと、次のように。語順も替えて、

《添削》

  綿虫にかざす手のひら(いり)()(なか)




《原句》②

  はつたりを利かす海鼠の面構え

 ユーモラスな作品です。およそ写実とは程遠い句のようですが、「海鼠(なまこ)」のグロテスクな存在感を直感的に「はつたりを利か」していると捉えたのは、なるほどと感じさせる強さがありました。
 ただ、「面構え」というのはどうでしょう。海鼠は「尾頭のこころもとなき海鼠かな 去来」と詠まれているくらいで、目鼻も分かちがたい形状をしています。これが〈鯰〉や〈おこぜ〉などであれば、まさにその通りと言いたくなるのですが。
 これは是非、顔のことなど言わずに、どたりと横たわる海鼠の実体だけで勝負しましょう。

《添削》

  はつたりを利かしてゐたり大海鼠


 〈海鼠〉は優美さとは縁遠い姿形のせいでしょうか、和歌や連歌の詠題とはされず、俳諧の季題として初めて登場したそうです。
 先に述べた去来の先生である芭蕉に、有名な句があります。
  生きながら一つに氷る海鼠かな   芭蕉
 実体を描きながら、生きものの哀れを象徴的に感じとらせる作品です。




《原句》

  日短か馴染みの犬も足速に

 冬至を過ぎると日一日と日暮が早くなり、気忙しい感じを抱かせます。〈短日〉〈日短か〉、どちらも同じ意味ですがいかにも冬らしい季語です。
 この「日短か」、四音の字足らずですが、佶屈した語感が慌しい冬の暮れ方の季節感にぴったりすると思われるのでしょうか、例外的に好まれて、例句も多く見かけます。読み上げるときは〈日・短か〉と一音間をあけて読まれます。
 上五に置くか下五に置くかにもよりますが、四音を嫌う場合は〈日短し〉〈短日や〉〈短日の〉あるいは〈暮早し〉を使ったりします。四音五音それぞれの用例をあげてみましょう。
  大阪に三日月あがり日短し   前田普羅
  少しづゝ用事が残り()(みじか)    下田実花
 内容にふさわしい語が選ばれていると思いませんか。リズム、調べは俳句の大きな要素になります。
 さてそれでは原句に戻りましょう。
 夕暮迫る頃、作者は所要があってのことかそれとも買物に出たのかもしれません。日頃、散歩などで行き会うご近所の犬でしょうか、向うも家路を急ぐかのようです。
 日常の一場面が切り取られていて、いい着眼だったのですが、「足速に」と見た捉え方に問題がありそうです。つまり、日暮になってきているので犬の方も急いでいる、という理屈です。
 作者にはまず最初に、思いがけず馴染みの犬を認めて、おや、という軽い驚きがあったことと思います。その驚きの方を大事にしたいのです。

《添削》

  日短か馴染みの犬に出合いたる

 〈日短か〉の季語は作者のいい選択でした。
 表記としては〈日短か〉〈日短〉、両方使われています。
 例句をもう一つ、ご紹介しておきます。
  人間は(くだ)より成れる()(みじか)  川崎展宏
 川崎展宏は加藤楸邨に師事し、森澄雄に兄事した人。現代俳句に俳諧味を追求し清新、瀟洒な作風で知られました。




《原句》④

  冬の藁塚くずれて五百羅漢かな 

 羅漢は仏教の悟りを得た聖者のこと、と辞書にあります。仏教でも大乗と小乗ではいくらか違いがあるらしく、五百羅漢に関しても釈迦入滅後、遺された教えを集め経典を編集した際に参会した五百人の羅漢、と、ものものしい解説がありますが、そこまで言わずとも、私たちにとっては仏さまより人間臭く親しみやすい、あの羅漢さまの数々を思い浮かべれば足りるでしょう。
 「藁塚」は稲刈の済んだあと刈田にいくつも積みあげられた藁の塊ですが、中心に棒を立てて組んだもの、棒を用いないもの、と地域によって違いがあるようです。〈にお〉〈藁こづみ〉など呼び名もいろいろですが、「藁塚」と書いて〈にお〉と読ませている用例もいくつかありますから、原句もそのつもりかもしれません。
 「藁塚」は日を経るに従い、雨に打たれ風にさらされ、へたっていきますが、作者にはその形が羅漢さまのように見えたのでしょう。面白い見立てです。
 一読して、一体の「羅漢」かと思ったのですが、これは刈田に数多く置かれている「藁塚」全体を言っているのだろうと気がつきました。だからこそ「()()羅漢」なのでした。その点がはっきりするように言葉を付け加えておきます

《添削》

  藁塚(にお)あまた崩れて五百羅漢かな

 原句では「冬の」と限定しています。藁塚が組まれてから日数がたっていること、そして冬の蕭条とした景を言いたかったかと想像しますが、「くずれて」(歴史的仮名遣いでは〈くづれて〉)の措辞がそれらを代弁しています。秋の季語〈藁塚〉と季重なりにしてまでの必要性はないでしょう。




《原句》⑤

  奥利根の初冠雪の風来たる

 坂東太郎こと利根川の源流は上越三国山脈に端を発しているそうで、奥利根と呼ばれる一帯は群馬県北部にあたります。山々を指呼の間に望む地域です。
 原句は風土の季節を捉えた力強い詠みぶりで、実に魅力的だったのですが、一つ疑問が残ります。「奥利根」はかなり広い地域を指すはずですし、その地域全体の「初冠雪」というのはあり得ないと思うのです。奥利根に位置する何処かの山の「初冠雪」なら分かります。
 上五に山の名を据えれば、この句は完成します。
 それとも、山からの風が奥利根一帯に吹き渡っているということだったでしょうか。それならば、
  奥利根()初冠雪の風来たる
となりますが、「初冠雪の風」だけでは省略しすぎるようです。
  奥利根に初冠雪の嶺の風
のように言葉を補いたいところです。
 ただ、原句の「風来たる」の措辞に勢いがあって、これを生かしたいために再度推敲をお勧めします。
 作者の意図がもうひとつ汲み取れませんので、今回は添削を決定いたしませんが、おそらくベストなのは先に述べたように、上五に山の名を入れる案かと思います。




(c)masako hara







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