わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第39回 2011/12/23


《原句》①

  葱出荷山間の朝匂う風

 市場に出荷するために束ねられて、どんどん積み上げられてゆく葱。早朝からの活気に溢れた状景です。葱をどうするこうする、と、ごたごた言わず端的に「葱出荷」としたことで引き緊まった勢いが出ています。
 野菜の中でも葱には独特のきりっとした印象があります。あの緑の色も朝の空気に似つかわしく、臨場感をもって描かれています。
 こういう句に対して、野菜であれば何であっても当てはまるではないか、という批評の仕方がありますが、――つまり季物の「葱」が動く、動かない、という批評ですが――、それはあとからの屁理屈というもの。作品に描かれた景が読み手に即座の現実味を覚えさせてくれるものであれば、成功といえるでしょう。
 さてそこで残念だったのは「匂う」です。こう言われた途端に、新鮮な葱がくたっと萎びてしまうような気がしないでしょうか。葱は(くさ)いという周知の事実の方が前面に出てくるためです。〈臭う〉ではなく「匂う」が使われていますし、実際にその香の中での作業だったのかもしれませんが、ここでは不要の言葉と思います。
 「葱切つて潑剌たる香悪の中」という、よく知られた加藤楸邨の句がありますけれど、こちらは葱の香そのものが一句の中心になって生動しています。原句はそうではありません。句の核心は、早朝の出荷作業です。殊に〈におう〉の語はどうしても葱臭さというマイナスイメージを引き摺ります。
 さらに、場所を説明する「山間」を入れるより、むしろ労働する人の様子が見えてくる方が作品の内容としては効果的なようです。では、

《添削》

  朝風に声掛け合ひて葱出荷

といたしました。あれもこれも詰め込むのではなく、一番言いたいところが生きるように工夫しましょう。
 原句では五・七・五が三段切れになっていましたから、その点も考慮して。




《原句》②

  錆びつきて錠前寒し鋳抜き門

 「増上寺」と但し書きがありました。
 今年(平成23年)、増上寺では戦後初めて山門の内部を公開しました。階上には中心の仏像三体のほか、羅漢像、上人像併せて数十体あったかと記憶します。作者もこの時拝観なさったのかもしれません。その折の所見かと推察します。
 詳しくは分かりませんが、〈()(ぬき)〉とあるからには、門扉の全体が鋳造されたもの、つまり金属を型に流しこんで造られた門でしょうから、木造とは異なる重々しさ、どっしりした厳めしさを感じられたのでしょう。加えて、錠前までも長い月日の間にすっかり錆びついていたとなれば、その冷え寂びた印象が格別心に残ったようです。
 「……して……」の形は理詰めになりやすいのですが、この句の場合大きな疵ではなさそうです。寒々しく感じられたという直感に無理がないためと思います。
 このままで出来ている作品ですが、参考までに、「寒し」の感覚を写実的な景で表わすとどうなるか、次の例で見て下さい。

《添削》

  木枯や錠前錆びし鋳抜門


 上五〈木枯〉は〈寒風〉とすることも出来ますが、〈木枯〉の方が景にゆとりが生まれるようです。




《原句》

  冬の蠅変身願望打たれて止む

 何とユニークな句でしょう。この「冬の蠅」は取り合わせではなく、〈冬の蠅の変身願望が打たれて止んだ〉という一物仕立ての想像句になっています。
 なんとも風変わりなことを考えるものだと驚きますが、冬の蠅は動きが鈍く、日向にじっとしているのを見かけます。沈思黙考の姿といってもよいくらいのものです。作者はそんな蠅の様子を眼にとめて、これが別の生きものであったらなあ、などと思ったのかもしれません。蠅に感情移入した、といっては大げさですが、ふと湧いた感想をそのまま言いとめました。
 奇抜には違いありませんが、この着想に納得させられるのは、夏の盛りの飛び回る蠅ではなく、ほとんど動かない「冬の蠅」であるからこそでしょう。暑い頃には腐臭にたかって、嫌われていた存在。
 「変身願望」がこの句の要ですが、「打たれて止む」は言いすぎのようです。作者の意図からは一歩退く形になりますが、次のようにしてみます。ご参考まで。

《添削》

  変身を思つてゐるか冬の蠅




《原句》④

  まだ日あり落葉ふる降る峠越ゆ 

 午後の日もだいぶ傾きかけた三時か四時頃でしょうか、四辺の樹木がしきりに葉を散らす峠道。「まだ日あり」の着眼に(じつ)があって、類想を抜けた作品になっています。
 「ふる降る」と畳み掛けた言葉は楽しそうですが、ここに比重をかけるより、夕暮近い日差しの中の峠道を確かに描くことに主眼を置きましょう。
 原句は「峠越ゆ」ですが、「越ゆ」という動作・行為にしてしまわず、眼前の景に集約すると一句が引き緊まります。となると、
  まだ日あり落葉を降らす峠道
となりますが、〈落葉降る〉の表現について考えたいことがあります。
 この用例は歳時記の例句にもいくつか見られるものですが、もともと〈落葉〉といえば、それだけで葉が落ちる(降る)さまを言うものです。もう一つ、地面に散り落ちているものも言います。いまは前者を問題にいたします。つまり〈落葉降る〉は、〈落ちてくる葉が降ってくる〉という二重表現ではないかということです。
 季語例には、〈木の葉散る〉(「降る」でも同じことですね)が〈木の葉〉の傍題として立てられていますが、〈落葉〉の傍題にはありません。
 ただ、言葉は使われているうちに用い方も変化していきますから、著名な俳人でも〈落葉降る〉と使っている方もいます。私には違和感が残りますが、いずれ普通になっていくのかもしれません。それはそれとして、作句の折には時々立ちどまって言葉を吟味してみる、それが大事なことだと思います。
 作者が〈落葉降る〉に拘るのであれば、そのまま。別の言葉でと思われるのなら次のように。

《添削Ⅰ》

  まだ日あり木の葉を降らす峠道

 もしくは語順を入れ替えて、

《添削Ⅱ》

  落葉してまだ日のありし峠道




《原句》⑤

  白き息豊かに競りの始まれり

 これは文句ありません。俳句表現のありかたをよく心得た方でしょう。
 「競り」にもいろいろあるでしょうが、魚市場の光景を思い浮かべたくなります。素人には聞き取りがたい符丁まじりの言葉が威勢よく飛び交って、寒さもものかは、熱気に包まれます。「白き息豊かに」は、まさしくその通り。みごとな大魚。長靴姿の男達。





 今年もあと僅かとなりました。震災、原発被害と、大変な年ではありましたが、皆様の真摯な作品に接することが出来て、良き刺激も沢山いただいた年になりました。
 私の手元にまだ素敵な投句作品も残っております。年明けにまたネット上でお目にかかります。皆様、良いお年をお迎え下さい。


(c)masako hara







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