わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第40回 2012/1/6


《原句》①

  島を打つ波音ばかり海桐の実

  普通ならば、波が打ち寄せるのは海岸の、磯や崖といった場所ですが、「島」そのものに打ちつけている波と捉えたのは大胆な把握です。このような感じ方は通常島に暮らしている人からは出てこないものでしょう。たまたま島を訪れた旅行者の感慨、発想のように思われます。
 上五中七に表現された広い空間と、近景の海桐(とべら)の実が引き緊まった対比をなしています。「波音」は聴覚、「海桐の実」は視覚、この二つが無理なく溶け合って句を構成しています。
 海桐は、文字からも分かるように海岸近くで見かけられる植物です。公害に強いことから、近年では都市緑化に用いられたりもするそうですが、原句はまさにこの地に自生する「海桐」として眺められます。二、三メートルの高さの常緑低木で、光沢のある葉の間から赤い実を覗かせます。
 島の景情を充分に想像させる作品で、このままで結構です。
 今後の作句の方向としては、次のようなことも参考にしてみてください。
 中七に置かれた「ばかり」の語は、状態を限定するとともに詠嘆の意を含んできます。主観的な言葉といえるでしょう。安易に使えば句を甘くしがちです。客観的な写実だけで押すのなら、
  島を打つ波音暮るる海桐の実
のような形も考えられますが、今回の原句ではすれすれのところで甘くなるのを踏みとどまりました。この部分に、旅情がふと滲んだという趣です。




《原句》②

  窮屈は楽しさに似て掘ごたつ

 なるほど、本当にそんなものかもしれません。掘炬燵を中心にした団欒の場。押し合い()し合い坐る大家族でしょうか、それとも友人同士の集まりだったでしょうか。四隅の柱が邪魔になって、はみ出す人も出そうなありさま。それもまた多人数の賑わいのうち。
 さてそこで、「楽しさに似て」のフレーズを改めて見てみます。
 「似て」いるというのは、作者の感想・判断になります。冷静に説明されているような気がしませんか。眼前の状景を臨場感溢れるように描きたいのです。「似て」を取り去って、〈楽しいのだ〉と断定してしましょう。

《添削》

  窮屈に坐りて楽し掘炬燵





《原句》

  寒林や追憶と言ふ窓開くる

 寒気の中の木立。深閑とした静寂が辺りを包んでいます。林の中の小径を辿っていると、過ぎ去った思い出がふと甦って、作者の歩みをとどめたのかもしれません。
 「寒林」の語の硬く強い響きによって、「追憶」が感傷に流れず精神性を帯びてくる働きがありました。
 三橋鷹女の句に、
  寒林を出てかなしみのいつかなし
があって(「いつかなし」は「いつか無し」)、原句とは逆のアプローチですが、「寒林」と胸裡の思いを照応させている点で、共通しています。さむざむとした冬木立の景色には感情を呼び覚ます何かが感じられるようです。
 原句での問題は「追憶と言う窓」でしょう。これは〈心の窓〉というのと同じで、「窓」が比喩になっています。このように言葉を飾らなくても、「追憶」は「追憶」だけで充分です。徐々に思い出すということを言いたいのならば別の表現で直截に言うべきと思います。その方が真情を伝えるものです。言葉は飾れば飾るほど真情からは遠くなるのですから。

《添削》

  寒林を来て追憶の(おの)づから





《原句》④

  匍匐していのち育む寒葵 

 寒葵のように地味な植物によく着目なさったと感心しました。
 この寒葵、図鑑によれば根茎が地表近くを斜めに這うとのことで、まさに「匍匐していのち育む」植物です。根茎の先につく葉はシクラメンによく似たハート形。冬に地表近く花をつけますが、ほとんど土と紛らわしい色の、花ともいえぬような花。花弁もありません。葉も花も地面に貼りつくような低い姿です。よほど渋い好みの人でないとなかなか眼にとめはしないでしょう。
 作者はそんな小さいいのちに心惹かれたようです。「寒葵」の性質をそっくりそのまま言いとめているのですが、上五中七が説明的にひびくことと、最後に「寒葵」を持ってきたためにオチがついてしまいました。
 一句の核心である上五中七がもう少し際立つようにしてみましょう。語順を入れ替えて、

《添削》

  寒葵匍匐のいのち育めり




《原句》⑤

  さりげなく誰を待つのか寒葵

 こちらも同じく寒葵が題材です。
 「寒葵」のひっそりとした様子を、客観的な写実で描くのではなく、対象にやや感情移入して捉えています。人を待つ風情に見えたということですが、「さりげなく」は言わずもがなです。中七以下で勝負しましょう。

《添削》

  寒葵誰かを待つてゐるやうな



《主題を生かす》
 これまでしばしば、〈一句の中心〉とか〈核心になる部分〉という言葉で説明してきましたが、これはつまり作品の主題ということです。一番言いたいことは何か、それを見極めて表現する、もしくは推敲が始まります。
 まずは無駄な言葉を省いて、主題を明確に示すこと。ふさわしくない言葉や曖昧な表現をしていないか見直すのが大切です。そのためには自分自身の作品を客観的に見る眼を養うのが必要不可欠ですが、実はこれがもっとも難しいことかもしれません。
 客観性などと簡単に言いますが、即座に身につく訳のものでもありません。一人よがりに終わらない人に伝わる言葉を自分のものにするには、多くの作品を読むことが一見遠回りに見えて、実はいちばん確実な道ではないでしょうか。
 幸い、歳時記には何百何千の用例が詰まっています。なかには理解しがたいものもあるでしょう。それは現在の自分には無縁として、まず共感出来るものに眼をとめていってほしいのです。複雑な内容が簡潔に表現されていることに驚いたり、忘れていた語句を思い出したり、得るところが必ずある筈です。そういう言語体験がいずれは自分の作品に反映されてくることでしょう。
 言葉は本来伝達のための客観性を備えています。それを正しく、そしていずれは独創的に作品に取り込んでいきたいものです。
 そのような積み重ねを繰り返していくうちに身についた言葉は、一句の主題をいきいきと立ち上がらせる作品を生んでくれるのではないでしょうか。


 新年おめでとうございます。
 年明けはじめての皆さまの作品でした。
 昨年暮から、すてきな作品が寄せられて嬉しいことでした。またご一緒に楽しく勉強してゆきたいと思っております。どうぞよろしく。



(c)masako hara







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