わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第41回 2012/1/13


《原句》①

  霜柱眠る古代の土器探す

 正式な発掘調査ということではなくとも、土地によっては畑の土に混って土器の破片が沢山出てくる所があったりします。子供がたまたま見つけた土器のかけらが引金となって、大規模な遺跡調査に発展したという例もあるくらいです。はるかな古代に思いを馳せるロマンは多くの人の胸に宿っているのでしょう。
 作者もまたそのような一人だったかもしれません。大地に埋もれた遠い祖先の暮し。原始生活に用いられた土器が、地中に〈埋もれる〉のではなく「眠る」と言ったのは、歴史の夢を思わせます。
 「霜柱」は昔も今も変わらぬ自然現象ですが、作品中の大地を具体的に印象づけるとともに、句の表面には出ませんが氷る光のイメージをも内包しています。「眠る古代の土器」は「霜柱」によって、実体感を与えられ、美しい夢をも感じさせるのではないでしょうか。
 一句の主題はこれに尽きます。そもそもが、土器を探すことから始まったにしても、作品の感興の中心はすでにその点を離れています。それならば、

《添削Ⅰ》

  霜柱古代の土器を眠らせて

 実際の現場での実感にしがみついてしまっては、作品自体の実感に無用の夾雑物を混えてしまいます。つまり「探す」の語は、表現の統一に不要のものということです。
 次に、「古代」の措辞について。これを明確にするとどうなるでしょう。たとえば〈縄文の土器〉〈天平の壷〉などのように限定すると、印象が定まります。

《添削Ⅱ》

  霜柱縄文の土器眠らせて

 「古代」では漠然として、鑑賞の場合、ムード的に捉えることになりますが、具体的な名称ならば、たとえば狩猟採集の生活に思いを及ぼすとか、原始宗教の祭祀の場を想像するとか、鑑賞の焦点が絞られてきます。
 作句のありかたとしてはこの方向に踏み込んでほしいと思っていますが、勿論それも作品の内容次第です。わざとぼかしておく、そういうことが必要な場合もありますから一概には言えませんが、少なくとも作者自身は対象をはっきり見極めておくこと、それが次の作品を深めていく姿勢につながると思います。




《原句》②

  年の夜や八坂の塔をまのあたり

 京都祇園の円山公園近くにある八坂の塔。除夜の鐘が鳴り終わらぬうちから、この辺りは初詣の人の行き来が見られます、と言いながら気がつきました。円山公園に隣接する八坂神社では元日早朝、白朮(おけら)祭の神事が行なわれるので、大晦日深夜から、この一帯は参詣客の人出で賑わいます。
 社前の大篝の火を自分の吉兆縄に移して、火が消えぬようにくるくる廻しながら持ち帰り、神棚や仏壇の灯明に、また雑煮用の火種にします。これが白朮火。作者もそれが目的で出掛けてきたのかもしれません。
 一年の終わりの夜、大きな時空を感じさせるこの刻を、古い歴史に(いろど)られた街にいる、それだけで充分な情趣に浸されます。
 「まのあたり」と、自分にひきつけた表現が臨場感に溢れて、聳える塔を間近にした驚きを読者も共有します。
 可不足のない言葉の斡旋。文句なしの作でした。





《原句》

  うわさぐちぺちりでまかせ日向ぼこ

 〈口さがないのは女の常〉などという言葉もありました。現代女性なら柳眉を逆立てることでしょうがそれはそれ。ぽかぽかとお日さまを浴びながらのんびりしていると、つい口も緩みがち、あること無いこと噂の花が咲いてしまいます。
 罪のない話題ならば微笑ましく、日向ぼこにはもってこいですが、原句から受ける印象は、何やら棘を含んで陰湿に感じられてしまいます。「うわさぐち」、漢字で書けば噂口ですが、この語がどこか意地悪気にひびくせいかもしれません。
 この場の「でまかせ」にすぎないのだよと、言う方も聞く方も心得てお喋りを楽しんでいる、そんな大らかな気分が出るといいですね。

《添削》

  大方は噂でまかせ日向ぼこ

 親しみぶかい季語の〈日向ぼこ〉。例句をご紹介しておきましょう。
  日向ぼこ笑ひくづれて散りにけり   富安 風生
  日向ぼこ父の血母の血ここに睦め   中村草田男
  地獄耳たて老いらくの日なたぼこ   西島 麦南




《原句》④

  年の夜や電子メールを数多捨つ 

  ぽぽと言ひて充電終はる霜夜かな

 同一素材での作品を並べました。
 一と昔前には考えられないことですが、現在ではさまざまな電子機器の類が家庭生活に普及定着しています。パソコン、ファックス、携帯電話等々。ことに携帯電話は、これ無しではいられない若者も多いようです。いわゆるケータイ。掲出した二句はこれを扱っています。
 都会生活は無機物に囲まれていて自然の息吹が感じられない、詩情が湧かないとの嘆きをよく耳にしますが、そんなことはないと思います。いつの時代も、新しい事物の出現があったはずで、そのたびに、これまでの詩の情趣といったものは試され鍛えられ、新しい表情を加えていっています。現代的な素材は身近にいくらでも転がっていて、私たちの生活そのものです。これを作品に取り込んで、新鮮な詩情を生んでいってほしいと考えています。
 前置きが長くなりました。まず前句から、
 「年の夜」は大晦日。新しい一年を迎えるに際して、古い不用のものはすべて片づけておきたいもの。ケータイとて例外ではありません。いつの間にか貯まった用済みメールをすっかり整理したようです。ケータイ用語を詳しくは知らないのですが、〈捨てる〉というよりは〈消去〉ではないでしょうか。その方がケータイらしさも出るようですし。
 さらに一考したいのは、一年の最後だからメールも整理しておくという理屈の部分があらわ過ぎることです。発想はそこにあったと思いますが抑えておきましょう。

《添削》

  電子メールをつぎつぎ消去除夜更けぬ

 中七で動作が見えてくるように、そして夜が更けることに比重をかけて、〈年の夜だから〉という理由の部分が弱まるようにいたしました。
 次に後句、
 「ぽぽと言ひて」は六音の字余りです。本来なら五音に整えて切れのよいリズムにしたいところですが、この字余り、案外効果的に働いています。リズムが緩いために返ってこの部分に注意が惹きつけられるためです。全体が間伸びしてしまってはいけませんが、中七・下五が簡潔に引き緊まっているので無理なく収まりました。
 「霜夜」の、しんと凍てた空気が状景を際立たせています。季語、すぐれた選択でした。手直しの必要はありません。




《原句》⑤

  村の子の走りながらに嫁叩

 「(よめ)(たたき)」は正月十四、五日ごろ、村の子どもたちが祝い棒を持って新婦の尻を打ってまわる行事、と解説されています。面白い風習があったものですが、これには子孫繁栄を祈る意があって、長野県佐久では〈嫁叩〉、そのほか各地方によって名称が異なるそうです。
 まさに原句の通りの光景が展開されるようで、このままで構いませんが、「走りながらに」の「に」がやや説明的語調に傾くので、「走りながらの」として、上から下まで一気呵成に詠んでしまってはどうでしょう。是非ともというほどのことではありません。一応気にとめて見て下さい。

《添削Ⅰ》

  村の子の走りながらの嫁叩き

 中七の「走りながら」は見た通りの状景。この部分は工夫のしどころになります。いろいろ言葉を探してみるとよいでしょう。たとえば次のようにすることも出来ます。

《添削Ⅱ》

  村の子の出会いがしらの嫁叩




 新しく投句なさる方が増えています。
 さまざまな個性溢れる俳句を拝見出来るのは楽しいことです。作者の顔の見えるような作品――というのは作者の生活、ものの見方や考え方がしのばれるような句、ということですが、そのような作品を期待をこめてお待ちしています。
 言葉は本来伝達のための客観性を備えています。それを正しく、そしていずれは独創的に作品に取り込んでいきたいものです。
 そのような積み重ねを繰り返していくうちに身についた言葉は、一句の主題をいきいきと立ち上がらせる作品を生んでくれるのではないでしょうか。



(c)masako hara







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