わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第42回 2012/1/20


《原句》①

  数え日やポインセチアに魅せらるる

 年末になって残る日数が少なくなったことをいうのが「数え日」。お正月まで、あと何日あと何日と、気忙しい気分を言い取った面白い季語です。歴史的仮名遣いでは「数へ日」と書きます。
 ポインセチアはよくご存じでしょう。クリスマス用の鉢物に使われる観葉植物。真っ赤な葉が、花と見紛う派手な美しさです。
 原句は、年の暮の慌しい一刻に、ふと眼に留まったポインセチアの強烈な印象が発想の原点になっています。着目したところは良かったのですが、「魅せらるる」は言わずもがな。これは作者の感想であって、ここまで言われてしまっては読む側に想像の余地がありません。まず削りたい部分です。
 次に、「数へ日」と「ポインセチア」はどちらも冬の季語。季重なりになっています。
 一般的に季重なりは一句の焦点が分散するために避けたいとされています。作品によっては必ずしも忌むべきものではありませんが、初心の場合は気をつけた方が失敗は少ないでしょう。原句の場合も、「ポインセチア」を中心にして、「数へ日」を別の表現にすると、内容にふくらみが出るようです。

《添削》

  ポインセチア片付かぬ日々過ぎゆけり
  ポインセチアなすこと多き日々過ぐる


 中七下五のフレーズは、自分の生活実感から浮かぶ言葉をいろいろ工夫してみて下さい。
 添削例は、〈ポインセチア〉と〈過ぎてゆく日々〉という二つの素材が配合されています。このような句の形を〈取り合わせ〉と呼んで、二つのものの結びつきが、互いに映り合って情趣が醸されるようにする作句法の一つです。この方法は思いがけない関わりを生んで新鮮な作品も多いのですが、関係性が離れすぎると何のことやら分からない場合も出てきます。()かず離れずの呼吸が必要になるようです。句作の最中にいちいち方法を意識しながら詠む訳ではありませんが、出来上った作品を検討するときに、覚えておいて損はありません。





《原句》②

  身籠れる娘の翳り実万両

 新しい生命を身に宿しているといえば、普通は明るい幸福感を思うところですが、「翳り」の語からは何か事情があるのだろうか、などと忖度してしまいます。
 そうではなく、おそらくは妊娠している女性特有の心理的な揺らぎのようなものを言いとめたかったのでしょう。では、


《添削》

  身籠りし()のふと触れて実万両

 「翳り」の代わりに動作を言うことで、読者に想像が広がるようにいたします。
 俳句は、多くの場合ふとした瞬間を捉えるものですから、わざわざ〈ふと〉とことわるのは本来は蛇足です。いわば禁じ手ともいうべき言葉ですが、ここでは一瞬の揺らぎを強調したいために、あえて使いました。多用は厳禁と申し添えておきます。




《原句》

  晩年のうやむや長し寒に入る

 「うやむや」は漢字で書けば〈有耶無耶〉。はっきりしない曖昧さをいう言葉です。
 「晩年のうやむや長し」とは、老境の感慨なのでしょう。過去の記憶も朧気になってきたかもしれませんし、毎日の暮しのあれこれもなんだかあやふやで確かな手応えというものが感じられない、そんな有り様を言葉にすると「うやむや」であった、そういうことかと思われます。
 少し表現を整理しましょう。まず、「晩年」と、時間を示す言葉がありますから、さらに重ねて時間経過を表わす「長し」は省いた方が、むしろ言わんとする内容が明確になります。
 次に、季語の「寒に入る」、これは一月六日ごろの小寒の日にあたります。この日から節分までの約三十日間が寒の内といって本格的な寒さの時期です。この季語が原句の内容にふさわしいかどうかも見ていきましょう。
 先述した①の作品同様、こちらも、感慨プラス季語という〈取り合わせ〉になっています。季語を取り合わせる場合、内容にふさわしいかどうかが大事ですが、内容をなぞるだけの()き過ぎの季語では説明にすぎないことになってしまって句の世界が広がりません。
 原句の「寒に入る」は、「うやむや」に対してここで引き緊めたかったと推察しますが、「晩年」つまり〈老い〉から一般的に連想されるのは、季節としては冬、寒さ、冷え、などです。さらに、寒の時期に入るという意味では時間を含む言葉でもあります。
 それやこれや考え合わせると、

《添削Ⅰ》

  晩年のうやむやなりし寒日和

《添削Ⅱ》

  晩年のうやむやに居て日向ぼこ

 Ⅰは、〈寒〉ではありますけれど良いお天気ということで、厳しさを柔らげました。
 Ⅱはもっと進んで、老いを肯う気分を押し出しました。
 Ⅰの<寒日和>、Ⅱの<日向ぼこ>、どちらも共通するのは、時間性ではなく、空間を表して主人公の存在を感じとれるようにしたことです。ご参考下さい。




《原句》④

  玄関の靴溢れ出す冬休み 

 素直な句です。家庭の賑やかさが眼に見えるようですね。一家全員家に揃っているのでしょうか。子供の友人が大勢遊びに来ているのかもしれません。運動靴やらブーツやら、あっち向きこっち向き、外に転がり出てしまいそう。
 この句からは、〈冬休み()()()〉という理屈は感じられません。冬休みの一状景として、読み手も素直に受け取りたい句です。
 しいて言えば「溢れ出す」の「出す」が気になります。水が溢れ出すように、一連の動きが続いて起きる場合ならともかく、眼前の光景は靴が〈溢れている〉静止した状態です。それならば、

《添削》

  玄関に靴の溢れて冬休み

 これで良いのではないでしょうか。




《原句》⑤

  恥らふ木誇れる木あり冬木立

 大変ユニークな着想です。寒々とした一群の木立から、それぞれの木の特徴を眼にした印象をこのように言いとめた大胆さ。裸木とか常緑樹、もしくは枝ぶりなどを言いたくなるものですが、客観的な描写を捨てて自分の感性に忠実に表現しています。人間臭い捉え方でした。
 一つだけ注意点を申し添えておきますと、「あり」の語は本来は無くもがなの言葉です。在ること(現実には見えずとも)を詠むのですから。でも今回は角を()めて牛を殺すような結果になっては残念です。語勢のひびきも強く出ていますので、このままでいきましょう。
 「恥らふ」の送り仮名は〈恥ぢらふ〉となります。これで正しいのですが、〈恥〉の文字以外に〈羞〉があります。〈はじらい〉で辞書を引くと出て来ます。含羞という奥床しい言葉があって、私などはこちらの文字が好きですけれど、これは作者の好みです。この場合は〈(はじら)ふ〉と表記します。
 俳句は短い表現ですから、文字一つにも気を配りましょう。漢和辞典で文字の意味を探ることも良い勉強です。


《添削》

  恥ぢらふ木誇れる木あり冬木立
  羞ふ木誇れる木あり冬木立





(c)masako hara







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