わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第43回 2012/1/27


《原句》①

  菓子の名の木目の正し春となり

 菓子の「名」とありますが、これは内容から推して菓子の折箱ではないでしょうか。薄い板を折り曲げて作られた箱。銘のある和菓子が品よく詰められて、改まった感じのする木の折箱かと思います。
 (まさ)()の通った美しさが作者の注意を惹いたのでしょう。
  菓子折の木目の正し春隣
として、一応の意は通じますが、作者の感興を伝えるには、木目が正しく通っているか歪んでいるかというこまごました把握よりも、鮮やかに眼に映った一瞬の印象を大事にしたい。となると

《添削》

  菓子折の木目きはやか春隣

ではいかがでしょう。「きはやか」は〈際やか〉。くっきりと目立つさまです。
 原句の表記では「春となり」でしたが、漢字表記にすると意味がすぐ呑み込めます。上の文字を「きはやか」と平仮名にしましたから、なおさら下五は漢字でまとめて、字(づら)の点からも引き緊めました。
 〈春隣〉は冬の季語ですが、もうすぐ春になる喜びが含まれています。一句全体を柔かく包みこむ、よい季語の選択でした。




《原句》②

  寒茜井月舞ふやほかいびと

 井月とは井上井月(せいげつ)。江戸時代末期に越後長岡に生まれたと推測され、明治二十年に信濃国伊那に没しています。三十代後半に伊那に現われてから約三十年間、この地を放浪し、土地の俳諧好事家に寄宿奇食して生涯を終わりました。〈乞食井月〉と呼ばれ定住することのない生活を送りましたが、伊那の人士に俳諧の手ほどきをしたり、自ら編纂した俳諧撰集も残しています。「春風や碁盤の上の置き手紙」「手元から日の暮れ行くや(いかのぼり)」などの句があります。
 原句の「ほかいびと」は〈ほがい〉と濁るのが一般的でしょうが〈乞食者〉または〈乞児〉の字を当てます。〈乞食井月〉と呼ばれた井月を指しています。
 原句は、冬の夕焼空に放浪の井月を思い浮かべています。「舞ふ」の語は、想像の井月が彷彿とする、との思いから出た言葉でしょうが主観的に過ぎるようです。これでは現在ただいま舞っていることになってしまいますから、現実の場からの表現になるように、


《添削》

  ほかひびと井月在りき寒茜

 このような人がいたのだ、という感慨を述べる形に致しました。




《原句》

  おいでやすと誘ひ込みたる火鉢かな

 話し言葉の「おいでやす」が効果的。読者はここからさまざまな人物像や物腰、口調など、各自想像をふくらませることでしょう。
 それにしても〈誘ひ()()〉の語はゆき過ぎかも知れません。まるで女性が手練手管を使ってでもいるようですし、あるいは商売気たっぷりに呼び込んでいるかのようです。
 ひょっとすると作者はそれを狙ってのことでしょうか。だとするとあまりいただけた話ではありません。川柳的な滑稽さに終わってしまいます。
 即吟的に場面を描いた面白さがあるのですから、狙った滑稽さを消しましょう。

《添削》

  おいでやすと誘はれてゐる火鉢かな

 原句では、状況を第三者の立場で述べています(おいでやすと言っているのは作者ではないのでしょうから)。そのせいもあって、やや皮肉っぽい眼が感じられます。添削例では作者が誘われている当事者です。これなら淡々と状況が詠まれていて、作った滑稽さは無くなってきます。
 中七の「誘はれてゐる」は「招かれてゐる」としてもよいでしょう。作者の気持に近い方を選んで下さい。




《原句》④

  独楽まわし吾子の眉間に一文字 

 怱卒に読むと、まるで子供さんの顔面に独楽が素っ飛んでくるようでびっくりしました。独楽回しの手が逸れたのか、危ない危ないと一瞬思いかけたのですが、勿論そんなことではなく、この「一文字」は眉間に皺が寄るほど力を入れている様子でしょうね。
 一心不乱に独楽を打つ場面を表情によって描いています。「眉間に」を「眉間の」として、「一文字」に直接かかるようにすると、はっきりするようです。
 上五は〈独楽回す〉または〈独楽を打つ〉のように動詞終止形で切ると力強さがでるのではないでしょうか。

《添削Ⅰ》

  独楽まはす吾子の眉間の一文字

 〈回す〉を平仮名で歴史的仮名遣いの表記にすると〈まはす〉となります。この上五は〈独楽を打つ〉ならばきっぱりした韻きが出ます。
 原句の主人公は「吾子」でした。作者の気持として、この語を入れておきたい、つまり我が子の成長記録の一齣のつもりで残しておきたい場合は別ですが、一句の中心をなすのは独楽を打っている緊張感です。そこに焦点を当てるのならば、次のようにするのも一法かと思います。ご参考に。

《添削Ⅱ》

  見据ゑたる眉間に力独楽を打つ





《原句》⑤

  どんど焼き背負いし我が子蹴りに蹴る

 「どんど焼き」は〈()()(ちょう)〉〈(きつ)(しよ)(あげ)〉とも言って、古くからある習わしです。この呼び名にもそれぞれ理由がありますが、多くは、松飾りや注連飾りを焚く小正月の火祭行事として知られています。とんど・どんどというのは囃し言葉からきたもののようです。
 原句は、高々と燃え盛るどんどの火に、背負われた幼な子が興奮している状景がよく分かります。手足をばたばたさせているのでしょう。背中にしっかり括りつけられて、もどかしかったのかもしれません。
 それにしても「蹴りに蹴る」は少々言いすぎでしょう。さらに「我が子」の措辞は、原句④の場合と同じことで、自分の子であっても誰の子であっても構わない訳です。「我が子」と限定するのは句の世界を狭くする場合が多いものです。ことにこの作品では、わざわざ「我が」とことわらなくとも通じますから、省きたい部分です。
 以上の二点に留意して、

《添削》

  どんど火や背に負ひし子の(きお)ひたる

 上五は原句のまま「どんど焼き」でもよいのですが、〈や〉の強い切れを入れることで対比が際立つかと思うのです。加えて、〈火〉の文字は炎をより強く印象づけるのではないでしょうか。
 下五に置いた〈勢ふ〉は〈気負う〉の文字も当てますが、勇みたつ・意気込む・勢いがあるなどの意味になります。



(c)masako hara







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