石田波郷の100句を読む
                


          (6) 2013/07/08




        石田郷子



  吹きおこる秋風鶴を歩ましむ   波郷

 昭和十一年作。
 昭和九年、明治大学文芸科に入学し「馬酔木」の編集を手伝いながら青春時代を送っていた波郷は、「馬」「樹氷林」という二冊の同人誌の選句を担当するようになり、その二冊をまとめて一つの俳句雑誌を出すことを考えた。それが「鶴」である。
 まず「鶴」という名を思いついたのは銭湯で体重計にのったときだという。げっそりと夏痩せしていた波郷は「病躯鶴の如し」といういう言葉を思いつき、後に「翌朝目が覚めると真先に『鶴』という言葉が意識に来た」「鶴は、最も通俗にして、且つ最も高雅なるものだ」と書いている。
 通俗と高雅……。ここまで書いてきて思うのは、筆者自身がこの句に初めて出合ったときの印象だ。お手本のような句。でも本心ではどこか好きになれない。ここでその答えを出そうかと力んでみたが、難しい。「通俗と高雅」を答えとしておいていいのかもしれない。
 「鶴」の発刊に際して、波郷は子どもを連れて上野動物園に行き、鶴の句を作った、その句である。
  児の嘆秋風の鶴歩まざる
もその折の句で、波郷は「吹きおこる」の句とともに、不出来で発表できないとして文章の間に挿入して掲載した。
 この句は、「秋風」を「しゅうふう」と読むか、「あきかぜ」と読むか、時々話題になるのだが、私は「あきかぜ」と読みたい。「しゅうふう」では、波郷の肉声は聞こえてこない。
 この当時の「馬酔木」はめまぐるしく人が出入りしていたようである。自選同人欄の顔ぶれもだいぶ変わったに違いない。昭和十年には、書店を開業していた石塚友二に会い、その紹介で横光利一に出会った。句集『鶴の眼』の序文を横光が書いたことはよく知られている。
 また前年、古郷・松山では五十﨑古郷が四十歳という若さで亡くなった。波郷は帰郷せず、東京でその死を悼んだ。松山を出てから三年余の間に三百通もの手紙を、古郷から受け取っていたという。その年波郷が書いた随筆「古郷さんを憶ふ」を読むと、古郷を「わが古郷さん」と呼び、「師」というよりも「兄弟子」という親しさで接していたことがわかる。
 大切な人を喪い、波郷はまた一つの節目を迎えたのである。

 

(c)kyouko ishida
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