2014/01/08 《25》 |
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秋の暮溲瓶泉のこゑをなす 波郷 |
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昭和24年作。句集『惜命』に収められた作品は、『風切』や『雨覆』の作品とは趣が異なる。考えれば当然のことである。自宅療養とは違って、同じように病と闘い、あるいは打ちのめされて敗れ去る人の姿を、日々目の当たりにしているのである。治療費の心配も重くのしかかる。一刻も早く、という焦りもある。家族への思いは複雑だろう。生きなければならない。しかし、そのための犠牲を強いられるのは自分ばかりではない。 黄葉はげし乏しき金を費ひをり 輝かしい黄葉の中に、自分はかくも貧しい。しかし、絶望はしない。卑屈という言葉に無縁の『惜命』の作品を読みながら、波郷の精神の健やかさ、たくましさを感じ、その明るさに周囲の人も自らの希望を見出しただろうと思う。 掲句は、秋の暮というもの淋しい景の中に、温かい命に満ちた一筋の音を描いて、『雨覆』での作品を彷彿させる。波郷の自註がある。 〈黄葉がたそがれの色につゝまれかける頃、妻は炊事に出かけてゐない、そんな時尿意を催すと、私は右手をまだ使へないので左の片手でベッドから紐を足らして結びつけてある溲瓶を吊り上げる。茶色で陶製の溲瓶は病室の床にうづくまり口をやゝ上に向けていつまでもおとなしく病床の主人に侍してゐる忠実な犬のやうであつた。患者達はそれで尿器のことを「ポチ」と称んでゐた。黄昏の病室で蒲団の下で尿器を使つてゐると、コボコボコボと静かな淋しい響をたてた。山中の泉にも似た響であつた〉。「肺の中のピンポン球」より しかし、この句からわびしさだけを受け取ることはない。こんこんと湧く泉のような生の証し。『惜命』の中の「成形」と題されたルポルタージュともいえる作品群の中で、もっとも詩情の高い一句ではないだろうか。 |
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(c)kyouko ishida |
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