神々の歳時記     小池淳一
      

2009年1月20日
【2】小正月の火
 正月には二つある。それは、旧暦と新暦といった暦法の違いによるものではなく、正月元日を中心とする大正月と一五日を中心とする小正月である。
 この二通りの正月のどちらが根源的なものであるかは、民俗研究の上では論争が繰り広げられてきた。暦の上で一年の最初にさまざまな行事が集中するのは当然であるのに対して、月の運行、満ち欠けを区切りとする感覚が古いのではないか、という見解は注目してよいだろう。この小正月を「女の正月」という地方が少なくないのも、何か大正月に代表される公式の暦法の感覚に対して、農耕をはじめとする生活のリズムが本来的に持つ感覚を示唆しているようである。
 小正月の時期におこなわれる民俗行事は大変に多様であって、それぞれに深い意味を持っている。ここではそのなかで、火祭りについて考えておきたい。
 小正月すなわち一五日近辺にとんど、鳥追い、左議長、さいとう焼き、おんべ等々きわめて多様な言い方でおこなわれる行事を小正月の火祭と総称している。地域ごとの呼称はさまざまであるが、元日から続いた大正月に区切りをつけ、家ごとではなく、ムラや地域の集団によって、それも子どもたちが中心になって―大人たちは手伝いや裏方にまわる場合が少なくない―、盛大に火を焚くことを軸としておこなわれる、という点が共通している。
 神奈川県城山町ではかつてどんどん焼きと称して、子どもたちが正月の飾りを各戸から集めることからこの行事の準備が始まった。大人たちはムラの広場にこれらを一四日までに円錐状に積み上げおいて火をつける。この火で、繭玉団子をあぶって食べると病気にならないといったという(『城山町史4資料編民俗』、一九八八年)。
 こうした行事の準備は、はやくからおこなわれ、静岡県沼津市近郊ではオンベと称して子どもたちが、正月早々に「オンベコンベ」と声を出しながら竹を集めていた(『沼津市資料編民俗』、二〇〇二年)。東京都多摩市の場合はセーノカミと呼ばれ、大人たちによって人が入れるくらいの大きさの小屋を松や竹、正月飾りなどを用いてしつらえ、一四日の夕方に火をつけたという(『多摩市史民俗編』、一九九七年)。
 農作業の妨げになる害鳥、害獣の類を儀礼的に追い払う鳥追いと結びついている場合もあり、その場合も子どもたちが主役であることが多い。有名な秋田県横手市のかまくら行事は水神を祀るという説明がなされるが、近隣の類似の行事と考え併せると、子どもたちによる鳥追いや火祭の要素を持つ小正月行事の一環で、雪国らしい要素が強調されるに至ったものと考えられる。
 神霊との関わりからすると、こうした行事の際に意識されるのは、多摩市の場合などに明らかなようにセーノカミ(賽の神)すなわち道祖神であることが注目される。ふだんはムラはずれの路傍に佇んでいるこの神が小正月の火祭りの際は主役となる。火が焚かれる場所は、安全の面からも、そうした道祖神が祀られている場所である場合が多く、特に静岡県伊豆地方などでは、わざわざ道祖神を小屋の中に移して火で炙る場合もある。神を火にかけるなどとんでもないことのようだが、これが古くからの民俗的行事のやりかたであることを考えるとわれわれが失ってしまった深い意味合いを、こうした荒っぽい民俗のなかに見出すことができるだろう。
 一年の最も寒い時期に火を用いて神霊の活性化を図るという心情が、あるいはあったのかもしれない。さらに、こうした小正月の火祭の担い手が子どもたちであったことを重ね合わせてみると、時間の変わり目である正月という時期に、ムラの境や路傍といった空間的な境界で、やがて大人になっていく子どもたちによってまつりがおこなわれるということになる。すなわち、時間と空間の境目に、ふだんは祭りの主役ではない―通常のムラの祭りは成人した男子の義務であった時代が長いことはよく知られている―、しかし、やがて大人になっていくムラの子どもたちによって新年を迎える祭儀が伝承されてきたのである。
 小正月の火祭はそうしたいくつかの境界的な感覚が重なり合って新年という時間を迎える行事なのである。

 左義長へ行く子行き交ふ藁の音  中村草田男





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