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2009年2月20日 | |||
【5】初午と稲荷の神 |
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正月から二月にかけて、さまざまな神仏のその年最初の縁日がやってくる。二月最初の午の日は稲荷の縁日である。京都伏見稲荷の神が降臨した日がこの初午の日であったことにちなむという。 稲荷はその文字が示すように稲作の神であり、その基盤である土地の神でもある。新たなに土地を切り開き、農地としていくことにともなって各地で稲荷が祀られるようになったことは当然といえよう。 その一方で、稲荷の神使である狐をこの神そのものであるかのようにとらえることも多く、こちらの方が馴染みがある場合もあろう。民俗信仰のなかで稲荷は、狐の姿で人びとと関わるのであり、狐を単なる動物とするのではなく、何らかの神性を帯びた存在として観察する歴史も長かったことを示している。 稲荷は年を重ねた狐であり、その毛の色は真っ白であるといった伝承は全国各地にある。稲の神であるということから、田の神と重ねられて信仰されてきた場合も少なくない。福島県の相馬地方でも豊かな稲荷信仰の展開が見られるが、なかでも小高村の古小高大明神というのは白狐稲荷とも呼ばれていた。土地の神が、白狐であり、稲荷でもあるというのは稲作の成功に寄せる人びとの祈願の篤さをよく示している。宮田登は、稲荷信仰には、狐そのものを神としてとらえる感覚が、田の神として稲荷を考えるようになる以前からあったのではないか、と示唆している(「地域社会と稲荷信仰」『山と里の信仰史』、一九九三年)。 稲荷は日常の生活のなかでなじみ深く、いわば隣人のように遇される存在であった。それだけに地域の行事のなかに組み込まれており、懐かしい記憶の構成要素ともなっている。 静岡県熱海市の伊豆山地区では、昭和のはじめ頃は初午が子どもたちの行事として盛んに行われていた。子どもたちは家々で作った色とりどりの幣束を稲荷の祠の回りに飾り立て、小屋を作り、お参りする大人たちが供えたものを受け取り、行事が終わると分け合って食べたりした。また子どもたちが、大きな旅館の稲荷にお参りするとお菓子が貰えたりしたという。 興味深いのは、この初午に用いた幣束は七夕までとっておいて、子どもたちはこれを手に持ち、濡らさないようにして海で泳ぐ習慣になっていたことである。子どもたちの行事としては春先の初午から夏の七夕までが一続きのものであったことがわかる。 日本各地には壮麗な稲荷の大社も少なくないが、屋敷などの片隅にひっそりと祀られている稲荷の数はさらにまた膨大である。そしてそうした稲荷の数々に寄せられてきた人びとの祈りを考えることが、庶民信仰の歴史を考えることへとつながっている。 |
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初午や神主もする小百姓 村上鬼城 ![]() |
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