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2009年3月10日 | |||
【7】雛人形と淡島信仰 |
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三月三日は雛祭りであり、きらびやかな雛人形を飾って女子の健やかな成長を願う行事として広く知られている。早春の陽射しのなかでの一年ぶりの雛人形との再会は、その間の子どもの成長とあいまって特別の感慨を覚える人も多いだろう。 人形を民俗学の立場で考えると、「にんぎょう」ではなく、「ひとがた」ということになる。季節の折り目に人間の姿をかたどって、それにさまざまな穢れや災厄を移し、除去することで生活全般の無事をはかるのであって、雛人形も、もともとはそうした祓いの儀礼のなかから生まれたものととらえられている。 今日では高価な人形を流すことなど、思いもよらないが、各地の民俗行事には流すことを基本とした雛の行事をいくつも見出すことができる。そうした古風を伝えると思われる流し雛としては、和歌山市加太の淡島神社の行事が有名で、全国各地から役割を終えた雛人形に限らず、さまざまな人形が供養のために集まることで知られている。戦後は昭和二六年以降に復活して、現在では多くの見物客がつめかける。 もともと淡島の神は、粟島とも書き、女性を病から救う神として信仰されてきた。それ以外にも多様な民間の祈願がこの神には寄せられていて、近世になると淡島願人と呼ばれる独特の姿の宗教家が、この淡島の神徳を広めたらしく、その活動とともに雛人形を流すという行事もかなり広がっていったものと推察されている(大島建彦「淡島神社の信仰」『疫神とその周辺』、一九八五年)。 例えば流し雛として知られるものに鳥取県用瀬町の「雛送り」がある。これを詳細に調査研究した坂田友宏によれば、鳥取県下ではこの行事は千代川流域を中心に広がっており、もともとは鳥取城下の人びとによって始められたものが近世の後半に農村にまで広がっていった可能性が強いという。そしてこうした行事の成立にも「アワシマさん」と呼ばれた淡島願人の活動があったことが推測されている(「因幡の雛送り(流し雛)」『神・鬼・墓―因幡・伯耆の民俗学研究―』、一九九五年)。 春以外の時期にも人形を飾る行事があることも「ひとがた」に託した生活の中の祈りが、美しい人形の鑑賞へと移り変わっていく過程を示すものと考えることができる。「後の雛」という季語は、秋の重陽に雛人形を飾ることをさしていて、これを「菊雛」とも言い、主として上方で行われていた。 |
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わだつみのけむれる雨の雛まつり 岩田潔 ![]() |
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