五月五日は端午の節句で、男の子の健やかな成長を願って鯉幟や武者人形の飾りが話題となる。全国的に見られる行事であり、柏餅や粽の味や香とともに懐かしく思う人も多いだろう。
ただし、この行事には民俗学的には立ち止まっておくべきことがいくつかあって懐かしいだけではすまないのである。
まず、節句という表記だが、古くは節供と書いたので、意味の上からも、節供と書くのが正しいというのが民俗学の見解である。
江戸時代に幕府が儀礼の日として、五節句を定めた頃から、節供を節句と書くようになったのだとされ、本来は「節」目となる日に、ふだんとは異なる御馳走が「供」されるという意味であるから、「節供」なのだというわけである(柳田國男『年中行事覚書』、一九五五年)。もちろんこの御馳走というのは、人間に供されるのではなく、節目の日に祀られる神霊に対するものであった。
特定の日の神祭りが、複雑な祭儀のあれこれによって表現されるのではなく、日常の暮らしとは異なる特別の食事を作ることで表現されるのだという見方は民俗学にとって重要なものである。さらにその場合の供物には祀られる神霊の性格が投影されているとも考えられる。そうした観点からすると、幟を立てることは神霊を招く感覚とどこかつながるものであるとともに、わざわざ柏の葉に餅を包むことも五月の時期に意識される神霊を改めて捉え直していく手がかりになりそうである。
また、五月五日は男の子のための節供であるという点にも注意が必要である。
奇をてらうようだが、この五月の節供は本来、女性が中心になるべきものであったという見方がある。それは五月四日の晩から、蓬や菖蒲を家の軒にさしたり、屋内でそれらを小屋のようにしつらえる風が関西や中国地方に古くは広く行われており、これを「女の宿」とか「女の天下」などと称していたということからの推測である。
五月に祀られる神霊は田植えの作業と関連があり、田仕事を見守る神霊を祀るのは女性の役目であったと解されているのである(高崎正秀「葺籠り考」『高崎正秀著作集(七)金太郎誕生譚』、一九七一年ほか)。
そうした古代的な感覚とは別に、五月の節供で尊重される蓬や菖蒲の効能を説き伝えるためにいくつかの昔話が蓬と菖蒲に結びつけられている。もっとも広く知られているのは「食わず女房」と題される話で、極めて少食の得体の知れない女を嫁にもらった男がいて、ある日、女の正体が化け物であったことに気づく。女は男をさらおうとするが、男は途中で何とか逃げ出す。女は男を執拗に追いかけるが、とうとう最後に蓬や菖蒲の生い茂った中に隠れることで男は難を逃れるという筋書きである。それによって五月の節供には蓬と菖蒲で邪気をはらうのだという説明になっている。
よく考えてみると、この話における蓬や菖蒲の効能はとってつけたようなものであり、本来的にこの型の昔話と不可分のものとは思われない。その証拠に青森県津軽地方では、五月の節供に蓬と菖蒲を用いる理由として、山姥に追われた小僧が隠れたのが蓬や菖蒲の茂みであったという語り口になる場合が多い。これは昔話の話型としては「三枚のお札」と呼ばれるものである。
おそらく、こうした昔話とは別に蓬や菖蒲に邪悪なものを追い払う力があるという信仰があり、昔話は後から結びつけて語られるようになったのだと考えられる。その契機やきっかけがどういったものであったのかは、まだよく分からないが、こうした方面から五月の節供の歴史を探ることも可能であろう。
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