五月二八日は「曾我の涙雨」とか「虎が雨」といって、必ず雨が降るという伝承が各地に伝えられていた。さしずめ、降雨の特異日といったところだが、鎌倉時代初めの曾我兄弟の仇討ちに結びつけられている点が面白い。
仇討ちなどといったことがずいぶんと縁遠いことのように思われるようになったのは良いことなのかもしれないが、文芸や演劇の世界ではこうした故事来歴をふまえていなければならないことはいうまでもない。最近では大学の講義で「皆さんもよく知っている曾我兄弟が…」としゃべってけげんな顔で迎えられたことがあって、それ以来気をつけることにしている。学校で習う歴史とは少し異なる、こうした挿話や事件の積み重ねが情緒や感動の母胎であり、父祖からの感覚の継承としても大きな意味を持っていたことを忘れてはならないだろう。
実際に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討ったのは五月二八日の夜、激しい雷雨の中であったらしい。兄の十郎はその場で討ち取られ、弟の五郎も捕らわれるのだが、兄弟にとっては本懐を遂げた喜びの涙でもあっただろうか。「虎が雨」というのは十郎の恋人であった大磯の虎という遊女が流したであろう涙に結びつけての言い方である。
そうした史実の一方で、毎年必ず雨が降るということは民俗学の範疇に入ってくる。この問題を扱った大藤時彦の「虎が雨」(『日本民俗学の研究』、一九七九年)によれば、必ず雨が降る、という伝承は、雨が降ることを望み、期待したことを意味するという。水が大量に必要な田植の時期に降雨を求めるのは稲作を軸とした生活では当然のことであった。つまり、曾我兄弟の故事と結びつけられる以前には稲作の成功を祈る心意があったと推測されるのである。
雨は実際の稲作に不可欠であるだけではなく、神霊の世界とも関わりを持っていた。大藤は、諸国の寺社の祭礼には決まって雨が降るという伝承が少なくないことにも注意している。晴れ渡る空のもとににぎやかに祭礼が行われるのが良い、というのが現代的な感覚であろうが、古くは雨が降ることで神が人間の祭りを受け入れたしるしとされていた時期があったらしい。降雨は祭りの成功を示すものでもあったのである。そうした感覚が薄れていくことで、祭りの雨だけが取り沙汰されることになったのではないだろうか。
親もとから離れて東京の下町で少年時代を過ごした歌手のさだまさしが当時の情景を歌った「木根川橋」(『夢供養』、一九七九年)には「木根川薬師の植木市の日には/今でも必ず雨が降りますか」という歌詞がある。これも祭りに際しての雨の伝承が東京の人々の間で語られていたことを示すものと言えそうである。
各地に伝えられている祭礼や行事における天候の伝承は、気候の変化のなかにも神仏の意志を読みとる繊細な感覚から生まれたもののようである。伝承は風土とも結びついて生まれ、成長していくのである。
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