近年は耳にしなくなったことばに川狩がある。川で魚を捕ることで、川漁と書いた方が通りがいいかもしれない。川での漁は、海でのそれと異なり、漁をする空間が限られていたり、対象となる魚の種類が決まっていたりするために、その方法が多彩で、中には海ではもう行われなくなった漁法が残っている場合もあった。
素手で魚を捕らえたり、流れをせき止めたり、あるいは魚の身体を麻痺させる毒流しなどといった方法もあった。網での漁もさまざまなものが行われてきたが、特徴的なのは筌といって竹や木の枝を編み上げ、魚類が中に入ると出られない筒状のものを用いる漁である。これは広く各地で行われていた。この筌漁を少年時代の思い出として懐かしく語る古老も少なくない。
川に潜って魚をとらえる漁法もかつては行われており、名人と呼ばれる人が一定の地域のなかには必ずいたものである。そうした人は魚の習性を熟知し、その動きを先読みすることに長けていた。
新潟県北魚沼郡入広瀬村でかつて行われていた川潜り漁についての聞き書きが「川潜り漁のこと」と題されて『西郊民俗』三九号(一九六六年)に掲載されている。筆者の最上孝敬によれば、この漁は大体、七月二〇日頃、コアゲ(蚕上げ)と呼ばれる養蚕の終了後、平石川の水が温かくなった頃から行われるものであったという。褌一つで片手にカギ、もう片手に石を抱いて淵に潜り、仰向けになって上を通るマスをひっかけてとるというスタイルで漁が行われた。真夏でも身体が冷え切ってしまい、水から上がると川原の岩にへばりついて温まったり、オカマワリという役目の仲間が流木などを集めて焚いてくれる焚き火にあたったりしたという。
その際に昼食に石汁という料理が作られることもあった。これは曲木細工の弁当箱のふたに水と味噌と捕ったマスの切り身とネギなどの野菜を刻んだものを入れ、焚き火で焼いた石をその中に何回かに分けて放り込むとやがて熱い汁が出来上がるというもので、鍋などを用いない独特の調理のやり方である。
入広瀬村の大白川ではこうした川潜りで捕ったマスは参加者の頭割りで分配されたという。ただし、はじめて川潜りに参加してマスをひっかけた者は、マスの背びれと尾ひれとの中間にある小さなひれから後ろの尾の部分をもらって自分の家のエビス様に供えたという。山村のエビス神はこうした供物によって祀られていたのである。
注目したいのは、こうした川潜り漁を盛んに行っていたこの地域は、シシ狩りと呼ばれる熊をはじめとする狩猟も盛んであったことで、山間部の畑仕事の傍らで漁や猟をすることで生活を組み立てていたという点である。民俗文化はこうした多彩な生業の組み合わせのなかで生み出され、育まれてきたのである。そうしたダイナミズムにも想いを寄せておきたい。
|