盆は死者の魂を迎え、さまざまに供え物をし、来し方を振り返る、そんな時間であるが、毎年の盆の始まりが、いつなのかは地域ごとに異なっている。新暦、旧暦それぞれの暦による違いだけではなく、実はそれぞれの地域の夏場の仕事にも影響を受けている。
東京の田無市や三鷹市、調布市では七月の末から八月のはじめに盆行事を行う習慣があり、かつては「勝手盆」とか「三十日盆」などと呼ばれていた。これは単純に暦の新旧によるのではなく、これら多摩地域における養蚕や麦作、のちには蔬菜類の作業の日程との折り合いをつけるために、明治の末から昭和のはじめにかけて地域で話し合いをして盆の日取りを変更したのであった。特に養蚕が盛んな時代には晩秋蚕と呼ばれる段階と重なると、ゆっくりと盆をしているゆとりは全くなかったらしい(水野道子「北多摩における盆の日取り」『法政人類学』六〇号、一九九四年)。
さらに「棚経」とか「棚参り」と言って檀那寺の僧侶が家々を回り、経をよむ都合をも考えると、多少は分散していた方が、檀家回りがこなしやすくなり、盆の日取りを変更するのは歓迎された面もあっただろうと思われる。現世の子孫の都合で盆の行事を動かしてしまうのは勝手なようだが、それも家の繁栄を目指してのこと、先祖の霊魂も許してくれたに違いない。
盆のような重要な行事の日取りが、現世の子孫の都合で変化せざるを得なかったのは、行事を軽んじていたようでいて、実はそうではなかっただろう。夏の暑さのなかで目が回るような忙しさ、慌しさのなかで、盆をすませてしまうことの後ろめたさ、味気なさ、そして申し訳なさが、日取りを移して、落ち着いて何とか盆をしたい、という気持ちとあいまってこうした日取りの変更が工夫されたのだろう。
さらに、各地の盆に関連する行事を広く見ると、七月の終わりや八月の初めに盆の始まりを告げるしきたりが少なくないことにも気づかされる。「盆路作り」とか「墓なぎ」というのは、墓と墓への道に茂る夏草を刈る作業をいい、新しいホトケを迎える家では庭に燈籠をしつらえるのもこの頃であった。
京都府舞鶴地方の盆行事の報告が『旅と伝説』(第七年七月・盆行事号、一九三四年)に浅井正雄によって寄せられている。それによれば、八月一日(旧七月一日)には地獄の釜の蓋があき、亡者たちがこの世への旅に出発する、といい、仏前に団子を作って供えたという。長野県下伊那郡で「釜の口」、千葉県夷隅郡で「釜蓋朔日」といっていたのも同じ類の伝承であろう。
死者がこの世を目指すのは、いうまでもなく子孫が盆のしつらえをして待っていてくれることを知ってのことであり、こうした伝承は、盆の始まりとそれを心がける子孫の心を示すものであった。まさに行事は日取りではなく、心である。
|