盆は、新しい仏があれば、二十日盆、三十日盆と丁寧にほぼ一月かけて行われる場合があるが、上方ではその間に地蔵盆として二十三、二十四日に子どもたちが地蔵を祀る行事が行われる。
地蔵を祀ることは必ずしも夏のこの時期に限られているわけではないが、とりわけ、七〜八月の祭りが賑やかに行われるのは、やはりその名の通り、盆行事の一環としての意味合いがあるためであろう。
京都の地蔵盆は、普段は寺院や堂祠におさめてある地蔵を迎えて、きれいに飾り付け、読経や数珠回しを行い、さらに御詠歌をあげてまつるが、大人たちはあくまでも介添えで、主役は子供たちである。一年以内に子どもが産まれた家庭からは、地蔵に新しいよだれかけを奉納するという習わしもあった。こうした行事を分析した石川純一郎は、よだれかけの奉納は産土神への氏子入りにも相当し、新生児へ地域社会参加の承認を与える意味があると看破している(石川純一郎「盆と地蔵盆」『地蔵の世界』、一九九五年)。特に各町内で地蔵が祀られ、その祀り手が子どもであるという点が民俗学的には重要である。
一方、青森県津軽地方では、小さいうちに亡くなった子どもたちを供養するために地蔵を建立し、懇ろに供養する習俗が盛んである。オセンダクと呼ばれる着物を作り、着せ替え、あるいは、お菓子を供えて祀るのは老婆たちであるが、そうした供養には子どもの存在が必ず意識されている。ここでは作られた地蔵は、不思議に死んだ子どもによく似てくる、などとも言われる。津軽でも地蔵は子どものためのものである。
日本の各地に祀られてきた地蔵の多くは、このように日常の祭祀のどこかに子どもとの接点を持っていた。それは地蔵自体が童形であるとともに、日本の仏教のなかで、この世とあの世との境であるところの三途の川の岸辺、賽の河原で衆生を救う菩薩として喧伝されてきたことと関係がある。賽の河原は、子どもたちが石を積み、それを鬼が崩すという苦行が行われる場所であり、地蔵はそうした子どもたちを救うとも言われていた。地蔵は子どもをとりわけ守護すると信じられてきたのである。
柳田国男の『日本の伝説』(一九二九年)の巻末に収められた「伝説と児童」という一編は、地蔵に関する伝説を列挙しながら、それらがいかに子どもたちと近しいものであったかを悠揚と語っている。末尾近くの「日本は昔から、児童が神に愛される国でありました。」という一文は、通り一遍の修辞ではなく、民俗信仰のありかたを鋭く指摘したものとして今でも生き続けている。
|