旧暦の八月朔日を八朔と称し、この日にはさまざまな行事が行われる。二百十日に近接していて、農家では台風の心配をする時候であり、収穫の様子を見、算段をする頃でもある。西日本ではタノミの節供などと称して作神に豊作を頼むのだ、などという。
ところで、江戸幕府においてはこの八月朔日が徳川家康が初めて江戸城に入った日であり、それ故に祝日とし、互いに贈答をする慣行があった。こうした生活習俗が天下の覇者とはいえ、家康の個人的営為に始まる筈はなく、公家や武家の記録を見ると、すでに中世から、この日が互いに贈り物をやりとりする日であることが注意されている。
和歌森太郎によれば、鎌倉時代の末、正和三年(一三一四)に花園天皇が、この日にさまざまな進物のやりとりがあるが、最近の流行である、と記しているという。さらにそれよりも六十年以上前の宝治元年(一二四九)に鎌倉では、この日に贈り物をやりとりすることを執権や連署から将軍への進物を除いて禁止する触が出ている。広く世間で行われていたことを鎌倉幕府が禁止しようとしたことから、和歌森はこの時期には八朔の儀礼は、まだ故実として固定してはいなかったのであろう、と推察している(「八朔考」『日本民俗論』、一九四七年)。
和歌森と同じく八朔の行事が、中世の段階で公家や武士たちに広がっていたことを検証した平山敏治郎は、武士たちはその生活の基盤であった農村での行事を取り入れ、武士たちが徐々に地位を向上していくにつれ、貴族層にも影響を及ぼして、八朔の贈答が行われるようになったのだろうと論じている。
また武家の行事として整えられていくにつれて、馬の張り子細工や馬の形をした団子をやりとりする慣習が瀬戸内地方では農村でも広がっていく。これは武士たちの習俗を農村でも真似るようになったものなのか、社寺に馬を奉納したり、絵馬をおさめたりする習慣から派生したのかはっきりしないが、階層を越えて行事が広がり、固定化される場合があることには注目しておいてよい。
京都の西陣では「八朔の泣き豆」といい、奉公人に豆を配ることになっていた。この日から夜業が始まり、夜食の意味を帯びた進物であった。山梨県の上九一色村近郊でも「八朔の泣き饅頭」といって下男下女たちの夜仕事が始まるこの日に特別な食物を作ることになっていた。播磨の的形地方では、この日をタノミ祝いといい、小豆飯を炊いたが、この日以降は昼寝の休みは、なくなることになっていた。農村における仕事の節目となる日であることが意識されていたのである(平山敏治郎「八朔習俗」『歳時習俗考』、一九八四年)。
今日では八朔の行事は節目としての意識も薄れかけている。中世の農村から武士たちの間へ、さらに公家たちにまで広がった八朔の行事は、再度、農村にも影響を与えつつ、現代に至って消えようとしているかのようである。
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