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【作品30】 |
2009/03/16 (第464回) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
晩年の八束が「ひとつばたご」に執心していたことは以前に述べた。たしかに、小さな十字形の白い花が湧きこぼれるように咲き、しかもさらさらとした風情がある。八束の嗜好に叶うはずだ。この句は、その花を詠んだ最後の年のものとなった。他に、〈思惟につつむひとつばたごの白き翳〉〈老いの恋あるやひとつばたご微塵〉の作も残したが、私にはこの句が、やや説明的な冗長さを指摘する人はあるかもしれないが、その清浄な雰囲気を無邪気に伝えようとして素直に受け取れる。 問題は上五をいかに読むか。「ひまつこう」「しぶきかげ」等いくつか考えられるが、いまは「ひまつこう」としておきたい。「しぶきかげ」の方が一語としてみれば自然なのだが、それだと「さざめき」のこまかなリズムと印象とに馴染まない。さらに、「ひまつこう」ならば、「ひまつこうさざめき」「ひとつばたごたわむ」と二つのフレーズの頭韻を踏むことにもなる。 さて、そのような読みを行った上で改めてこの句を読もう。はじめのフレーズでは、この花の様態を「ひまつこうさざめき」と微視的に捉え、細かく弾けるような印象を描く。「飛沫をなす光がさざめく」というのは、花を取り巻く光の隠喩であり、作者の心が捉えた光のイメージでもある。そして、二つ目のフレーズでは、一転して巨視的に「ひとつばたご撓む」と全体の姿を捉える。さきほどの湧きでるような光を集めて、全体がたわむようだとい言うのは、理屈であるようでいながらそうではない。光は本来重さを感じないものだからだ。この「たわむ」というのは、眼前のひとつばたごの実際の姿であるかもしれないし、八束の内心が捉えたイメージであるのかもしれない。後者ならば、それは「ゆく春やおもたき枇杷の抱きごゝろ 蕪村」の心理的な重たさと通う合うものがある。蕪村の心を古典とすると、八束の心のもたらしたものには光を媒介にした近代的な装いを感じる。やはり、八束の最晩年の代表句の一つであろう。 |
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『春風琴』平成9年作 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(C)2007 Masami Sanuka | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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